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宗教指導者の現実感覚

매일종교신문 | 기사입력 2018/04/17 [13:29]
「時代の変化に対応できなければ世の中が心配する宗教」

宗教指導者の現実感覚

「時代の変化に対応できなければ世の中が心配する宗教」

매일종교신문 | 입력 : 2018/04/17 [13:29]




「時代の変化に対処できなければ世の中が心配する宗教」


筆者は先日、某宗教団体で本部の大型教会を居住地域別で教会信者を分散する問題があって会議に参加してほしいという通知を受けて出かけて行った。教区責任者と教会信者の間で論争が果てしなく続いて、教区長が苦痛を受けているようだし、なかなか終わりそうになかったので発言権を得て問題の核心をついて代案を提示したが、教区責任者は決定できないから地域総責任者に会って議論しようという結論を結んで解散した。


地域総責任者から「明日の午前1030分に会おう」という連絡がきて、その日1010分に会議場に到着して待機していた。
 
地域総責任者は教団で有能だと認められ新しく赴任した指導者だ。彼は1030分に会議場に出てきて挨拶を交わしてずっと説教(?)をした。説教が始まって1時間以上過ぎたのにもかかわらず、ずっと話していた。筆者は12時に約束があって先に席を立たねばならない状況なので共に参加したある元老の方に時計を示して本論に入りましょうと申し上げたところ制止して本論に入った。筆者は問題の核心内容を説明して議論が可能なのか反問したが、一言で不可だということだ。私はこれ以上論じる必要がないと判断し、「分かりました」と会議場の外に出てきた。


1時間を越える彼の『説教み言葉』を聞いていると残念な考えさえした。宗教指導者として初めて会った信徒に一言でも多く教えたい気持ちの説教であることはよく分かる。だが、近頃は情報通信の発達でインターネットやSNS(社会関係網)等を通してすでに知っている内容なのに彼は自我陶酔に陥って時間が経つことも知らずに熱弁を吐いていたのだった。
 
「会って会議をしよう」は本来の目的を失ってしまったのか? 訪ねてきた人に対する身上程度は把握しているということなのか? 信徒に対してはこのようにしても構わないということなのか? 自ら反問していると、ある宗教団体の最高指導者が「自分の教会の信者を尊重しないのに世の中の人々を尊重できるだろうか? そのようにして伝道ができるだろうか?」という言葉が思い浮かんだ。ひとまず自分の教団の信者になれば尊重しないで差別することが普遍化されているということだ。筆者も共同体発展のために奉仕しようという意見を韓国宗教指導者に黙殺された経験がある。
 
指導者は現実感覚が優れて知恵と聡明な気運があふれてこそ
 
すべての人が七情、すなわち喜怒哀楽愛悪欲を持っているのは天性だ。人間はこの七種類の感情に常に拘束されるほかはない存在だ。重要なのはその程度の差だ。すなわち行き過ぎが大きければ大きいほど内面世界はより一層荒廃し、思慮と視野はますます狭まるばかりだ。このようになれば凡人にも問題がある。だが、国家指導者や軍指揮官にはあまりにも大きな禍をもたらすことになるので慎んで慎むことが知恵だ。
 
いや、それだけだろうか。各分野の指導者が皆備えなければならない基本徳目だ。そうであるから諸葛亮も「喜びと怒りの教えは、喜んではいけないことは当然嬉しくないということが真の喜びで、怒ってはいけないことは当然怒らないことが真の怒りだ」といったようだ。冷徹・沈着・理性が内在した状態で持つ深い考えは突発と衝動を防ぐ母胎で、慎重と警戒の土台になる。また、当然しなければならないことと、してはならないことを区分するようにして最も必要な時に使う力を用意する。一つの国の責任を負ったり軍隊、企業または団体を導く指導者ならばどうしてこれを見逃すことができようか。いつも平常心を維持して内心を寂寞の中に閉じ込めろ。気を付けて、耐えて、確実な機会を窺うことは勝つための滋養分であることを肝に銘じなさい。これらを私たちに与えた教訓・教えが孫子兵法だ。宗教を含むすべての場のリーダーや個々人も同じだ。彼らが自身の気持ちと感情を調節できなくて状況判断をすることができないままいきなり表面に表したとしたらどうなるだろうか。このようになれば非常に紛らわしく難しい境遇に直面するだろう。合理的な判断の喪失で逆作用が噴出して目標を成し遂げるのに大きな障害になることがあるためだ。無理が行き過ぎれば事故が生ずる。心の作用と意識の状態が傾倒せずにバランスを取るのは非常に賢いことを自覚して実行しなければならない。人間は感情の動物ではなかったか。
 
「時代の変化に対処できない宗教は衰退する」
 
現代は光速度ではやく変化する。日ごとに変化するのが今日の情報通信技術(ICT)だ。
 
これは私たちの社会の全分野を完全にひっくり返している。簡単に変わらない宗教も急速な変化の波の中に生存が危ぶまれている。すでにそうなっている。「時代の変化に対処できない宗教は衰退」(キム・ヨンチョル:圓光(ウォングァン)大学教授)するほかはない。
 
よく『人事が万事』という話をする。政治や宗教など各団体で人を使う時、人事委員会のような公式機構の検証を経ないで人事権者個人の独断または、コネによって決定された者が力量をまともに発揮できずに害悪を及ぼすならば、その被害はそっくり国民と信徒に降りかかる。チェ・スンシルゲートがこれを克明に見せているではないか。特に宗教団体は全てのものが人事権者に集中している。所属信徒の意中は全く知ることなく人事権者によく見えれば良いという意識が広まっている。むしろ一般常識が通じない所が宗教団体の構造とだといえる。いわゆる『聖域』という名前で覆われている。これは新興教団だけでなく既成教団の一部宗教指導者にもそのような姿を見ることができる。
 
多数の宗教学者は今日の韓国宗教の状況を指して『宗教デパート』と診断している。時代の変化に対処できずに現実感覚がない言動を宗教指導者がするならば、かえって世の中が心配する宗教になってしまうだろう。 (毎日宗教新聞会長)

(翻訳:Naoko記者


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