광고

宗教のミステリー

매일종교신문 | 기사입력 2018/05/11 [10:45]
平和と幸福、互いに自分だけ良ければというのにどうして定着できようか

宗教のミステリー

平和と幸福、互いに自分だけ良ければというのにどうして定着できようか

매일종교신문 | 입력 : 2018/05/11 [10:45]




私たちのことわざに『他人の伝染病、自分のカゼにはおよばない』という言葉がある。自分が病気の時は大げさに騒ぐのに他人の苦痛に対しては淡々としているためだ。人は誰でも自分の安慰をまず最初に考える。自分の欲求充足を人生の第1位として、自らの有益だけを追う。生存のための本能だと考えれば理解できる。
 
だが、自分だけを考えるこういう人生観は自身の人格を腐敗させ、他人に被害をもたらす。自身だけを考える人は心の平和を失って心身の障害が生ずる。悪いことも一緒について来ることになる。自分だけを考えれば全てのことがうまく解決しないのみならず、結局自分の性格を破壊してしまう。
 
これよりさらに重要なのは他人に非難を受け、他人に被害を与えた分だけ代価を払わなければならないということだ。豆を植えたところに豆がなるという自然の法則は例外がない。自分が植えたとおりに刈り取るはずだ。自己中心の人生は結局マイナス人生になって、子孫にまで苦痛を相続することになる。小貪大失である。


世の中が平和で幸せでないのは人々が自分の実利だけを求めようとするからだ。自分の欲望だけを求めるならば相対的に被害を受ける人がいるはずだ。互いに自分だけ良ければいいと考えていたのではどうして平和と幸福が定着するだろうか。
 
世の中には不合理なことが蔓延している。毎年数千万人が飢え死んで、10億人余りが一日1ドル未満で延命している。殺傷と破壊が絶えない。各種疾病、道徳的堕落、犯罪、テロと戦争などで多くの人が苦痛を受けている。これは物質と快楽と権力を勝ち取るための誤った競争がつくり上げたものなどだ。全て自分さえ良ければそれでいいという欲望の産物だ。人生の難問題は人の心から欲心だけ取りはらえば即刻解決が可能だ。
 
世の中の難問題は欲の産物
 
宗教は世の中の問題を直視している。だから隣人愛を強調する。キリスト教では『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』と勧め、ヒンズー教では『隣人を自身のように考えることによって正しい行動規範を得ることができる』と話し、仏教では『他の人のために徳を実践する人だけが幸せになることができる』と教える。儒教も『隣人と和合して兄弟らと義理堅く生きろ』という。イスラム教もまた『隣人と兄弟を自身のように愛せなければ信じる者ではない』と力説する。
 
しかし教えと行動が違う。言葉は利他主義を叫ぶが利己的で、愛を叫ぶが憎悪心に燃えている。自分の宗教の利益のためならば常識外の行動をも辞さない。恐ろしい集団だ。その上独善的でさえある。自分の宗教の他には何も認めない。近ごろおきた事件二つを挙げてみる。
 
去る10月、我が国の企画財政部が時期外れの『異端認定』論議で困り果てた状況に陥ったという報道があった。一部のキリスト教系で「異端からも税金をかき集めるのは政府が出しゃばってエセ宗教集団を公認する格好」といって反発しているということだ。
 
韓国キリスト教総連合会など保守新教が集まった『プロテスタントの宗教人課税タスク・フォース』の幹事を受け持っているパク・ヨセフ牧師は「所得税を少しでも取り立てようと類似宗教まで制度圏中に入れようという拙速政策」としながら「これによって広がる宗教葛藤に対しては全く考慮しないでいる」と政府を批判したという。『税金』と『異端』を連係させたのだ。あっけにとられる。
 
イスラム女性の『ブルカ論争』も深刻な問題だ。カナダ、ケベック州で適用された公務員覆面着用禁止法が全世界的に起きているブルカ論争に火をつけた。公共の場所でのブルカ着用禁止を支持する陣営は公共安全を保護し、西側社会の価値を守護するためにこのような法が必要だと主張する。反面、ムスリム権益団体など人権団体はこの法がイスラム規律上、顔を外部に出せないムスリム女性を直接ねらった法だと反対する。
 
『自尊欲の枷』抜け出せない宗教
 
ベルギーでは2011年に公共の場所での覆面着用が全面禁止された。法案が通過された直後、ベルギーに住むムスリム女性2人が私生活および宗教の自由侵害を挙げてヨーロッパ人権法院に訴訟を提起したが、裁判所は去る7月『共存』、『他人の権利と自由守護』の理由を挙げてベルギー政府の手を取る判決を下した。
 
イスラム国家を訪問する他国民にはイスラムの律法に従うことを強要しながら自分たちは他の国の規律に従わないというのは利己的だという非難を受けている。自分たちの宗教と文化と風習は尊重されることを願いながら他の国の宗教と文化と風習は無視するということだ。
 
人々が『自分だけ考える』という欲の人生観を捨てて『他人も考える』という良心の人生観を持てばこの世は平和で生きる喜びを感じる世の中になるだろう。利他的に真実に生きる平凡な人々こそ世の中を支える力となり、皆が尊敬して追求しなければならない人間像ではないか。断然宗教が先に立たなければならない。
 
動物世界で強い動物が弱い動物を取って食べるのは罪ではない。弱肉強食の食物連鎖が構造化されているためだ。人は違う。動物は自らの苦痛だけを感じるが、人は他人の苦痛も感じる。造物主が人心に植えておいた良心のためだ。造物主を知らない者にも良心は内在している。これは遮られているだけ、磨けば誰でもあらわれることになっている。
 
良心が生きている人は即座に他人の苦痛を自分の苦痛のように感じる。飢えた者のそばで一人で腹いっぱいに食べることができず、自らの利益のために人を害することができず、他人の頭上に上がって君臨できない。人を自らのごとく尊重して施そうと思う心がおのずから沸き出る。しかし良心が眠っていたり死んでいる人は動物性だけが発達して自分の苦痛のみ感じるだけ、他人の苦痛は全く理解できない。あの草原の猛獣を見よ。弱い動物が悲鳴をあげているのに噛み付き、食べて自分の腹の中を満たしているではないか。愛がない者は人の仮面をかぶった猛獣と変わりない。
 
愛に対する欲求は人間が意識しようがしまいが私たちの心の深いところで絶えず泉のようにわき出ている。愛は与えても、また与えてもうれしく嫌気がささない。常に刺激的だ。愛の喜びは世の中のどんなものよりも大きい。愛する相手が喜ぶのを見れば自身の喜びよりもっと大きな喜びがくる。人から愛を抜いてしまえば下等動物と違わない。
 
自己中心の人生には人を配慮する心がない。自己中心は悪の始まりだ。宗教家の信仰と修行の目的は自我より高い慈悲と愛の倫理的な次元に進もうとするところにある。ところで宗教は今でも『自尊欲の枠組み』から抜け出せずにいる。それゆえ利己的だ。宗教のミステリーだ。 (毎日宗教新聞会長)

(翻訳:Naoko記者)

  • 도배방지 이미지

많이 본 기사
모바일 상단 구글 배너