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悟りと分別について

이부평 기자 | 기사입력 2019/04/26 [11:38]
苦労と苦痛を通して悟りを得て、悟りが分別のある人間にしてくれる

悟りと分別について

苦労と苦痛を通して悟りを得て、悟りが分別のある人間にしてくれる

이부평 기자 | 입력 : 2019/04/26 [11:38]

 

 

長く寒い冬が過ぎ去って爽やかな日差しの春の日が訪ねてきました。しかし心の片隅には物足りなさが残っています。歳月が空しく過ぎ去っていることを残念に感じるからです。しかしこれはしかたのないことなのです。人としてはどうすることもできないから、断念するほかはありません。

 

もたもたしていると無駄な歳月を送るのが常です。人は自分に与えられた時間を皆使い果たす前に分別をつけられなければなりません。分別がついてこそ人としての本分を果たすことができるからです。『分別がつく』という言葉は事理を分別して判断する力があることをいいます。しかし年を取ったからといって分別がつくのではありません。人が分別がつかないで人生を終えるのはあたかも実を結ぶことができなくて冬をむかえた植物と同じだといいます。

 

では、どのようにすれば分別がつくのでしょうか。悟りがなければなりません。悟りというのは遠くにあるのではなく、奥深く難しいものでもありません。それは即ち、私と他人を害する行動をして生きてきた自身の誤りを悟って後悔することです。そうなってこそ考えが変わり、生活が変わって真実な生活を送ることができます。こういう成熟した人生になってこそ分別がついたといえるでしょう。それで『悟ってこそ分別がつく』と言ったのではないかと思います。

 

たいてい宗教家は経典を勉強したり指導者の説教や説法を通じて悟りを得ることができると考えるようです。しかし悟りの場面は取りも直さず私たちの日常の生活で、悟りの道は苦労と苦痛の中にあるようです。

 

人は他人の肋骨が折れた痛みより自分の爪の先に刺さったとげの痛みをもっと大きく感じます。しかし自分が直接苦痛にあったりその立場に立ってみれば相手の痛みに共感できます。『苦尽甘来』という言葉のように、人は人生史の苦痛にあって悟り、分別がつくようです。

 

悟りを得た人は他人の痛みを自分の痛みのように感じます。なので他人を思いやり配慮しようとします。私だけ良い暮らしをすれば良いという姿勢から抜け出して、親や兄弟、隣人のことを考えて大切にしようとします。そして更には私の家族が楽に暮らせる自然環境を作ってくれ、日用化する様式を与えてくれた造物主に感謝する心を持ちます。

 

「お金をたくさん儲けさせてほしい」、「病気を直してほしい」という祈福信仰では悟りを得にくいでしょう。宗教人は熱心に教会や寺に通って平和と博愛精神を習うが、内面を覗いて見れば自身と家族の安寧と福を祈る祈福的性格が少なからず座を占めていることが分かります。

 

宗教指導者のなかには自分の宗教を信じれば「福を受けて、成功して、天国や極楽に行ける」と教える人が多いのです。なので宗教を信じる目的が世俗的な恩恵を受けるためのもののようになってしまいました。教祖が『願いを成し遂げる魔術師』のように認識されているようです。宗教指導者の相当数は献金して奉仕すればより多くの恩恵を受けると教えます。このような教えが信徒の悟りと分別がつくことを阻害して、愚昧で分別がない信仰者にしてしまうのではないかという気がします。

 

親は子供に分別がついて欲しいと望みます。自分の身の回りのことがきちんと出来て、他人を配慮できる人になって欲しいと願います。我々人間の親のように造物主も同じ思いでしょう。

 

これが私が悟ったことです。しかし私のこのような悟りが必ず正しいと断定することはできません。私は自分自身を分別がついた人間だということができる人間ではありません。それで今日も心を整えて自分を振り返ってみて、悟りと分別がつくように精進しています。

 

(翻訳:Naoko記者)

 

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