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『ハメル漂流記』の著者ハメルの朝鮮宗教体験

이부평 기자 | 기사입력 2019/07/09 [09:46]
「宗教と教理はないが多くの寺院と庵子、宗派がある仏教」に注目

『ハメル漂流記』の著者ハメルの朝鮮宗教体験

「宗教と教理はないが多くの寺院と庵子、宗派がある仏教」に注目

이부평 기자 | 입력 : 2019/07/09 [09:46]

 

 

「宗教と教理はないが多くの寺院と庵子、宗派がある仏教」に注目

キリスト教徒がかえって面目を失うほど異教徒から厚いもてなしを受けた漂流者たち

 

1653816日、スペルウェール(Sperwer)号の済州島(チェジュド)付近難破とハメル(Hendrick Hamel1630-1692)一行の漂流記録は『ハメル日誌』、『ハメル漂流記』、『ハメル報告書』、『難破経緯陳述書』など多様に呼ばれている。

 

『ハメル漂流記』は、全乗務員64人中の36人が生き残り、ハメルはその船の経理業務はもちろん航海日誌を作成して帳簿を整理する船の航海士のような位置にあった。

 

ハメルを含めた8人が脱出に成功したのは1666914日。当時生存した人は16人の残留人員の中で外交的な方法で日本を経てデンマークに発った8人中7人。1人は残留することとなった。

 

残留に関する記録がない状態であり、家庭をなして住みついたという説と船に乗ることができない程の健康上の問題があったともいわれている。

 

本の著者はほぼ14年の間、軍役・監禁・笞刑・流刑・もの乞いなどのひどい風霜を経て様々な階層の人と接触した。

 

漂流した彼らの朝鮮に対する第一印象は、好意的であり親切な姿だ。負傷した自分たちを治療してくれた朝鮮の人は饗宴を施して彼らの憂いを癒そうと努力してくれた。毎日「国王から返信さえくればあなたたちを日本に送ってくれるだろう」と言って慰めてくれた。

 

キリスト教徒がかえって面目を失うほど異教徒から厚い接待を受けることになった。南北の様々な地域を引っ張り回されながらも当時の風物と風俗に対する事情を観察できたので、我が国に対する深い印象と豊富な経験をよく生かして記録されたと考えられる。16686月、日本に引き渡すことで長い航海の帆をおろすことになる。

 

このような3度の脱出試みと成功、そして送還に対しては多様な角度から接近が可能だがここでは仏教、民間信仰、ハメル一行の信仰生活などを中心に調べようと思う。

 

 

「様々な偶像に仕えるが、偶像よりは権力者をさらに崇拝」…儒教国家の地位要約

 

まず、宗教と思想を調べれば国民は『様々な偶像』に仕える異教を信奉すると前提にするが、実際には「偶像よりは彼らの権力者をさらに崇めたてて、高官と両班(ヤンバン)は偶像崇拝などは省みることもないだけでなく、かえって彼ら自身が偶像の上に存在しているかのように慢心が強かった」と朝鮮王国の儒教国家としての地位を要約している。

 

これはまた、性理学を崇めたてた高位層では他の思想と宗教を異端や邪教とさげすんで、宗教活動は一般的に民間次元だけで伝えられたことを含蓄している。ひいては『中国と同一』である儒教の特徴をキリスト教と比較したが、勧善懲悪的な道徳観が土台を成していて、説教あるいは教理問答のようなものがなく、また、分派間の布教事業の代わりに個々人の意志に任せていると言った。また、分派間では論争を行うことがなく、旧・新教間の、そして分派間の戦いが激しいヨーロッパ宗教界の実情と対照的なことを指摘している。

 

巫覡信仰に対しては三、四の部分で議論されるが、巫女が吉凶禍福の主題者として信仰されていることを描写している。

 

『占い』あるいは『魔術屋』は、地方官たちに赴任する吉日を予言してあげ、「故人が安らかに逝ったのか、そして(風水的に)よい場所に埋められたのか」供物と祈祷で神の意志を探知してあげ、それに問題が生ずれば解決してくれるなどの職能があるといった。特に病気を直す機能が強調されて、民衆はよく、(医者の)代わりに匠人と占い師を訪ねて行って彼らがいう通りに実行するのだといった。

 

ハメルの信仰生活に対してパク・キヒョンは、ハメル漂流記を通じて知らされたペルテブレ(パク・ヨン=朴淵)とハメルが韓半島で福音を伝播したという仮説を展開することになる。

 

1630822日、ヘンドリック・ハメルが洗礼を受けた時、フルクン市長が証人になった。ハメルは明確にプロテスタント信者だ。ハメルが聖書を持って朝鮮に降り立ち、これを分けてあげたり、回したとすればそれで公式布教活動と見てもかまわないためだ。朴淵が運命的に韓半島に漂着してきたが、見慣れない環境に適応して新教の真理を体で伝播して朝鮮に定着し、彼が死ぬ前に出会ったハメルが彼の状況と自分たちの難破の話を本に書き記しておいたものが『ハメル漂流記』だという主張だ。ハメルは単純に難破船の船員だ。

 

中国で活動した宣教師のように翻訳、著述した学術書を通じて積極的に西洋知識を伝播することもなかったし、また、日本に住んでいたオランダ商人のようにヨーロッパ文化との橋渡し役をして近代化過程に寄与したのでもない。

 

ハメルと朴淵の布教活動に対する具体的証拠より周辺の情況を通した可能性に重きを置いている。ただしハメル一行は自分たちの行動の中でいつも祈祷を捧げていた。二人による福音化より自分たちの境遇に対する慰安であり、朴淵は個人的信仰行為に対し、ハメルの共同祈祷形式と局限されていたと見る必要がある。難破という極限状況に置かれた船員に当時チェジュ牧師は人情を施している。これは宗教とは関係ない東洋的な人情の表現の一つである。しかしハメル一行はこのような行為さえ宗教的に解釈している。

 

ハメル一行は短くない時間を朝鮮に留まって過ごしたが、個人の私生活には言及していない。しかし一部は家庭をなして暮らしたという推測にもかかわらず、彼らが日本へ脱出を試みた背景と関連して、いくら努力しても移民国家に同化することができずに、主流社会に進入できないという挫折感と相対的剥奪感を感じたためだとのアメリカ移民世代の調査資料を根拠に提示している。社会同化に最も大きな障害物となった外見的問題とともに、彼らが滞留した期間16001800年の間、朝鮮は伝染病が280件発生したと集計されている。

 

▲ 朝鮮軍に捕らえられたハメル一行を描いた挿絵。1608年にアムステルダムで刊行された版本     ©毎日宗教新聞

 

脱出時にも続くハメル一行の祈祷生活

 

朝鮮で生活しながらいつも祈祷生活をしていた。16594月、孝宗が崩じて彼の息子が顯宗として即位した。

 

「私たちは僧侶らと最も仲が良かったが、彼らは非常に寛大で私たちが好きだったし、特に私たちが我が国や他の国の風習を話すのが好きだった。彼らは外国の人々の人生に対して話を聞くことが好きだった。もし彼らが願ったとすれば、彼らは夜を明かしてでも私たちの話に耳を傾けただろう。

 

1666年、後任の左水使(朝鮮時代においての左水営の長)が赴任して自分たちにきつい仕事はもちろんのこと、兵士たちが射た矢を拾ってくるようにするなど不当な命令を下すことに対する不満に、キリスト教徒を困らせたという理由で全能な神がその罰を与えた話は後ほどする。

 

1664年、新任の左水使が前任者と違った待遇をする姿を見せたりもする。私たちは先の残忍な左水使から解放されて代わりにこのように善良な人を迎えられたことに対し神に感謝した。」

 

1665年、朝鮮を脱出しようと試みる最中にも祈祷は続いている。

 

「船を準備しようと努力したが常に失敗した。だが、私たちは小さな舟を一つ持っていた。この舟で食べ物を集めたり、全能な神がいつか私たちを助けてくれる可能性を探して島のあちこちを歩き回った。

 

他の二ヶ所の地方に住んでいる我々の同僚も、左水使によっては楽に暮らしたり苦労したりもしたが、彼らの左水使も私たちが体験した左水使のように良い人もいるし悪い人もいたためだ。しかし私たちは異教徒の国家に捕えられているかわいそうな捕虜ということを悟って、彼らが私たちを助けて死なないように食べさせてくれるだけでも神に感謝してこのすべての苦痛を耐えなければならなかった。

 

1666年、海岸地帯は司令官(水軍左水使)が必ずいなければならないので、前任者は新任水軍左水使が三日後に赴任してくるまで離れることが出来なかった。占い師の話によれば、その日は彼の任期を始めるうえでとても良い日といった…(このように日を選んで赴任した水軍左水使一派は、部下兵士たちを不注意によって5人死なせてしまい、この事実を隠そうとしたことで)90発の笞刑と共に終身島流しにされてしまった。」

 

1666年ハメル一行は脱出を試みる。その初めての試みで船を準備した後、出港をしながら祈祷を捧げている。

 

「陰暦の上旬に旅立つことにした。ちょうど季節が変わるこの時が適正な時期であった。私たちは神に案内者になってほしいと祈った。」

 

日本に到着したハメル一行は、我々の全能な神に幸運と長い道中健康を授けてくれたことに対して感謝を捧げた。

 

13年と28日の間、悲しみと危険の中で監禁生活をした我々は、助けてくださった神に対して何と感謝の言葉を差し上げるべきか適切な言葉を探せなかった。また、かの土地に未だ残っている8人の同胞も救助されるように神が救いの手を差し伸べて下さることを祈った。」

 

これらの切実な祈りのおかげで2年後、オランダ政府側の要求で残っていた人々が故郷へ帰ることができた。

 

ハメル一行が経験した仏教と儒教・巫俗の姿

 

ハメル一行は当時、朝鮮の宗教はないと考えていた。それでも仏教には庵と寺院、数多くの宗派があるとし、僧侶と寺院の姿を描写しておいた。

 

「貧民は何の畏れも抱かず自分たちの偶像の前で顔をしかめる。彼らは善いことをした者は報いられ、悪いことをした者は罰を受けると信じている。しかし彼らの間に説明される教理はない。それにもかかわらず、朝鮮には庵と寺院が多く、数多くの宗派がある。ある寺院には五~六百人以上の修道僧がいる。僧侶は自ら望むならば好きなように自分の職業(僧侶)をやめることができ、誰でも僧侶になることができる。一般的に僧侶は奴婢と似た扱いを受ける。僧侶は軍役の免除を受けられず、大多数が交替で城や要塞を警備する服務につく。もし彼らが悟りを得れば高僧としてあがめられる。僧侶は馬に乗って往訪する。

 

僧侶は一生の間何も食べなかったりもする。僧侶は頭とひげを剃って女性と話しをすることは禁止されている。僧侶として初めて出家すれば腕に消すことができない印を刻む。この印によって彼が宗団にいたということが分かる。僧侶は生計のために労働や商売、または托鉢をする。僧侶は子供たちに読み書きを教える。結婚ができる宗派もある。伝統的に僧侶は俗世のすべての人々が以前には一つの言語を使ったが天国に上がる階段を作ろうとする計画が言語の混乱を引き起こしたと信じる。金持ちは気分転換のために妓生らと色々な庵にしばしば立ち寄った。多くの庵は景色が良いところに位置していて美しい庭園を持っている。なので庵は寺院というよりは遊興の場所と呼ばれなければならない。」

 

脱出成功、ハメル一行の長崎総督調査内容

 

脱出に成功したハメル一行は日本に到着して長崎総督から直接調査を受けることになる。ここで主に朝鮮の文化はもちろん軍事関連、宗教など多様な内容が記録に残される。

 

次は長崎総督の尋問内容と返答を整理した。

 

*質問 10:君たちの船にオランダ人以外のキリスト教徒や他の国籍の人を乗せたか?

 

-会社の人々だけだった。

 

*質問 17:キリスト教徒や他の国籍を持っている人をそこで見たことがあるか?

 

-オランダ人であるヤン・ヤンセの外には誰も見ることができなかった。

 

*質問 23:彼らはどんな信仰を持っていて君たちを改宗しようとしたことがあったか?

 

-私たちが見たところ、中国人と同じ信仰を持っている。彼らは宗教を強要しなかったし各自の考えに任せている。

 

*質問 24:寺と仏像は多いか? 礼仏をどう思うか?

 

-山には多くの寺院と修道院があってその中に仏像がたくさんある。私たちの考えでは中国式で礼仏を行うようだ。

 

*質問 25:僧侶は多いか? また、彼らはどのように髪を刈ってどんな服を着るのか?

 

-僧侶は多い。彼らは仕事もするしもの乞い(托鉢)もしながら生計を立てている。彼らの服装と頭は日本の僧侶と同じだ。(ハメル一行は当時僧侶が読経する声と見ている経典が漢字で書いてあることからそのように思ったようだ。それで服装は日本式と表現している。当時、僧侶の僧服は韓服の形態であったので日本式という表現は正確だと見ることはできない。現在の僧侶の服装は朝鮮時代の韓服の変形だ。)

 

「性理学者などの葬儀の様子で、官吏が死ねば故人の子供たちは3日間哭(死を悲しんで声を上げて泣く礼)をしなければならない。3日間遺族(妻、子供)は僧侶のような禁欲的な生活をしなければならず、何もしてはならない。婦人と共寝をしてもならない。葬礼期間の間に遺族(妻、子供)に子供が生まれれば、その子は嫡出とならない。遺族は葬儀期間中は争ってもならず、怒ってもならず、酒に酔ってもならない。遺族たちは葬儀期間の間竹杖をついて、荒い麻服を着て風呂にはいることもできず他の人と区別される。だから遺族たちはまるで混血児のように黒い。葬式は壮厳で故人にはお供えを捧げる。誰かが死ねば彼の遺族たちは泣き叫んで葬儀行列に従う。

 

一般の人たちは盲人や巫女を医師として彼らの忠告に従っている。お供え物を山や川岸、絶壁や岩に置いて祭事を行ったり悪魔の身上を置いた家で諮問を求めたりもする。悪魔の身上を仕える場所は1662年に撤去命令が出されたため、それ以上利用されることはなかった。巫女の性禀に対しては性分がおとなしくて信仰心が非常に厚い。私たちが望むことを教えることができる。見知らぬ人たちは特に僧侶に好意的であり、誰にも害を及ぼさない。彼らは死んだ人が楽に冥土に行ったのか、良いところに埋められたのか教えてくれる。人々は彼の指示に従っている。死体は常に用心深く埋められ、地官は水が流れてこない山に埋葬地を定めている。」

 

『仏教とキリスト教との共通性を浮上させようとする意図』が明確 ― 塔の建築とバベルの塔事件の比較

 

ハメルの記録によれば、朝鮮では人が死ねば占い師や巫女を呼んで良いところに送られるよう祈る儀式を行う。以後死体は地官を通じて埋葬地が決まり、49祭(49日)は寺で行われる。

 

当時の人々は一部の過激な性理学者などを除いては幅広い信仰生活をしているということがわかる。一方その分量と内容面で最も大きな比重を占めるのは仏教なのだが、これは一行が普段僧侶らと身近に接したのでそれだけ仏教に対する親和力も高いことを示唆している。

 

『偶像』すなわち仏像をまつっておいた神壇は『今日では』使われなかったり、『1662年、玄宗によって破壊され、その間王宮で後援してきた修道院も閉鎖される』など寺院の数を減らし寺院経済を弱化させた朝鮮王朝の排仏主義政策を再確認することができる。

 

だが、神衆には相変らず大小の寺院や寺が随所に位置し、僧侶の数もまた数え切れないことに力点を置いた。ひいては教理と意識をはじめとして法度、仏教の実態が多角的な側面から照らし出された。また特記する点は仏教とキリスト教との共通性を浮上させようとする意図が明確だということだ。例えば「僧侶が言うには、昔は本来万人がみな一つの言語で通じたのに、人々が各々塔をたててそれを登って天国まではい上がろうとありったけの力を込めたあげく全天地がこのように変わってしまったのだ」と言った。

 

これは塔を建築する人々の心と言語を混乱させて遠くへ散らせることによって塔建築が中断されるようにしたという旧約聖書創世記、バベルの塔事件と脈を同じにするためだ。(脚注:バベル(Babel)または、バビロン(Babylon)といったその地名は『神が言語を混乱させた』 という意味だ。(創世記1119)は結論から探すことができた。)

三国遺事文化院長

  

 

              (翻訳:Naoko記者)

 

 

 

 

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