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『真心を込めた祈りは必ず叶います』

SAORI記者 | 기사입력 2020/10/30 [14:09]
圓佛教 釜山蔚山教区 明倫教堂、張心研(チョン・シムヨン)教徒…修行したことのない修行、数十年の写経ノート

『真心を込めた祈りは必ず叶います』

圓佛教 釜山蔚山教区 明倫教堂、張心研(チョン・シムヨン)教徒…修行したことのない修行、数十年の写経ノート

SAORI記者 | 입력 : 2020/10/30 [14:09]

圓佛教釜山蔚山教区 明倫教堂、張心研(チョン・シムヨン)教徒…修行したことのない修行、数十年の写経ノート

 

圓佛教の少太山大宗師は「世渡りには有閑なものが一番貴い、話すのは控え目で、やられても阿呆らしく謹んで行う人は常に安楽だろう」と述べた。愚かで愚かな行動をすることほど難しいことはないだろうか。これはしようとしてできることではなく、自分の中で生きて騒ぐ「私」がいなくなった時、自然に到達する境地だからだ。その時に達すれば自然に忙しい中でも、常にのんびりと安楽になるからだ。

 

容陀圓(ヨンタウォン) 張心研(チャン・シムヨン、77) 圓佛教 釜山・蔚山(プサン・ウルサン)教区 明倫(ミョンニュン)教堂教徒は長い修行と信仰生活で体得したためか一言で表現すると「如如自然」だ。無駄なく清潔で素朴な彼女の家の片隅に積み上げられている数十冊の写経ノートと仏壇前の千念珠が、彼女が注いだ誠意を込めた修行の時間を推し量ることができる。しかし、長い時間の修行で鍛えられた重みの修行談は、あえて言葉で表現しなくても分かる。彼女はいつも「良くやっていることは何もない、修行ということもなく、時間があるたびにただやっている」という言葉だけを繰り返す。しかし、むしろそのような言葉が逆に彼女の長年の修行の内功をよく表現してくれている。

 

張心研教徒には「人生は修行だ」、1日に34時間ずつ祈りと念仏、写経を数十年間行いながらも、修行するという考えはない。「毎朝、千念珠を回す時や写経をしていると、雑念がすっかりなくなる。修行をするのではなく、ただ体が動くままにしておく」と語った。

 

朝、目が覚めると坐禅で始まり、祈祷を終えると天念珠を手に取る。霊呪、一圓相誓願文の原文、般若心経、清浄呪を順に念珠一粒一粒に込めていく。念珠を手で回しながら突然妄念が出たりもするが、そのまま放っておけば妄念は妄念にすぎない。

 

数十年してきた経典写経は、それ自体が祈り…一つの文字を書き三拝、千念珠で念仏も

 

いつから始めたのか思い出せない経典写経は、それ自体が祈りである。写経は、一つの文字を書いて三拝し、一つの文字を書いて三拝する気持ちで文字をぎゅっぎゅっと押して書いていく。数十年間、写経をしているけれどまだわからないお言葉がとても多いとし情熱を見せている。

 

60枚用の写経ノートを開いても、どのページを開いても最初のページと同じように乱れた字一つない。 ありふれたボールペンのインクの塊もノートについていない。千念珠の念仏も写経も同じだ。上がったり下がったりすることなく穏やかだ。初めの心が終わりの心だ。初志一貫だ。

 

彼女は「長い間やっているうちに法文が身について、私を取り囲んでいる全体が一つになる感じです。縁起だと言われたお釈迦さまのお言葉が頭で理解できていましたが、生きながら体でぱっと伝わってきた」と言った。昨年の夏、釜山市と慶尚南道(キョンサンナムド)を通過した台風で居間の窓枠が曲がり、外れそうになったとき、彼女の頭に真っ先に浮かんだ考えも自分よりも他人だ。凄まじい台風が家中をかき乱しているにもかかわらず、窓ガラスが割れて外に落ちないようにしなければならないという心配だった。大きな境界を経験すれば、これまでの修行結果が素面で表れるため、境界は恩恵にならざるを得ない。

 

 

▲ 圓佛教 釜山蔚山教区 明倫教堂 容陀圓 張心研 教徒   ©毎日宗教新聞

 

10年前、容陀圓 張心研(チャン・シムヨン)教徒が大腸癌の手術を受けた時も、私の痛みは少しも問題にならず、体が丈夫でなかった夫の心配ばかりした。脳梗塞を患って回復中だった夫の世話をすることに、もう「私(自分)」はいなかった。彼女は当時の状況をこのように回想した。「手術室に入ってからもあまり心に変化がなかった。生きる、死ね、そのような分別は浮かばず、ただ霊呪を唱えながら入りました。霊呪はいつも癖ですからね」

 

56年後、夫が完全に回復した時の過ぎ去った話の末にそのようなことがありましたと、また話してくれた。自然災害であれ、人であれ、私がけがをするのは大丈夫ですが、私によって他人が痛みを経験してはならないという気持ちがいつも先です。長い修行で頭に入っていた一圓の真理が肌で感じ取られ、人生に自然と溶け込んでいる。

 

『大きな祈りを捧げて、全体のために祈るので、私のことも解決されます』

 

『祈りは叶うようになっています。一点の乱れもなく、心を込めてみてください』

 

10年前、夫が脳梗塞で倒れた時でした。医者も見込みはないとあきらめましたが、集中治療室にいる夫のために、70日間、夜明けごとに沐浴をして法身仏の前に座った。夫はその後10年を生き、彼女が注いだ祈りを後で知るようになり、教党に対する姿勢が完全に変わった夫を見ることも心が満たされる。容陀圓教徒はどのように祈るだろうか。

 

彼女は『大きな祈りを捧げる。他人がうまくいってこそ自分もうまくいくので、自分だけうまくいくようにしてほしいと祈ることはできない。全体のために祈るので、私のことも解決される』と話した。

 

天禄(天が与える福禄)を動かすことが祈りだと言っただろうか。それだけ祈りは私心がない時に叶うのです。

 

彼女の人生を振り返ると、大きな境界が一度や二度ではないにもかかわらず、彼女には境界ではないか、記憶の中から引き出すのに長くかかった。夫が峠を越え、徐々に回復している時、彼女は大腸癌にあった。いくら生死の勉強がうまくできていると思っても、癌という致命的な障害に直面すれば、ほとんどの人が崩れるようになる。夫が病気だと自分が隠れることはない。しかし、彼女には癌も風邪と変わりなく手術を受け、薬を飲んで病院に通った。写経ノートの文字が始めと終わりが同じであるように、日常の境界がそのように静かだった。修行というまでもなく自然に人生に溶け込んだ読経・祈祷・写経が本来の心を振り返らせた。このように「私(自分)」なしに全体が一つに組み合わさっていくのである。

 

その困難な中でも難関を克服し、「私は本当に運がいい。良い両親、良い兄弟、良い夫の実家、良い教堂、立派な教務の方々だけに出会った。周囲には良くない縁もなく幸せに暮らしている」と恩恵を受けたことを有難く語る。

 

お釈迦さまの目にはお釈迦さまだけが見えるといって、自分の中に生きている「私」がいてこそ可能なことです。彼女にとって圓佛教教堂はどんな所だろうか。「学校ですね。いつも学びに行く所です。圓佛教は心法を勉強する所なので、どんなにいいですか?」

守岩 文潤洪〈大記者/コラムニスト〉moon4758@naver.com

 

(翻訳:SAORI記者)

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