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「祖国の統一を願ったオモニの一生」

매일종교신문 | 기사입력 2015/01/22 [18:09]
在日韓国人、金粉任さんの証言

「祖国の統一を願ったオモニの一生」

在日韓国人、金粉任さんの証言

매일종교신문 | 입력 : 2015/01/22 [18:09]
李 浩康記者(月刊誌「Korea Today」)の投稿をご紹介する。
李記者が在日同胞の子孫として、戦後の先輩同胞の生き方を取材した手記である。

戦前から日本にいた在日同胞たちは、光復節(日本の終戦記念日)をどのような気持ちでその日を迎えたのだろう?

長年筆者にとって、これは大きな疑問であった。

苦しかった戦争が終わり、新しい時代を迎えるのだという期待感がとても大きかったに違いない。

太平洋戦争が終結した1945年8月15日、岩手県には多数の朝鮮・韓国人が居住していた。その日を小学校低学年で迎えた、金粉任さん(78歳)の著書「祖国の統一を願ったオモニの一生」に、このように書かれている。





  



 
「夕方近くに家に帰った私は、目を疑いました。疎開先の薄暗い部屋の中で、祖母と父母が飛び跳ねていたからです。『朝鮮に帰れるんだよ、戦争が終わったんだよ』」

こうして金粉任さんは、これからは自由に、好きなように生きられ、国にも帰ることができるんだということを、大人から知らされた。

そして、「(8月15日から2週間が過ぎて疎開先から盛岡市内に戻った後の)ある日、解放された民族の喜びが、大きな流れになって、自然と喜びをアピールするデモが始まったのです。市内の朝鮮人、大人も子供も、男も女も、赤ちゃんまで背負って、集まったみんなは興奮の渦の中で、万歳万歳、朝鮮万歳を叫びながら、また、解放歌を歌いながら市内を練り歩きました。」

この金粉任さんの証言によると、総動員で解放をとても喜んだことがわかる。どうして、当時の自国であった日本の敗戦をそれほど喜んだのか?

8月15日の金粉任さんのお母さんの証言では、「朝鮮は勝ったけど、日本は負けたんだよ」という記述がある。

これは、歴史的な事実から言うと誤っている。しかし、在日同胞がこのような認識を持っていたこと、これは日本の植民地支配がうまくいっていなかったのを意味することに他ならない。「朝鮮が勝ち、日本が負けた」、ここからは日本の支配を歓迎していたということを感じることができない。

よく、歴史学者が「両国政府の合意の上」と日本の植民地支配の正当性を訴えるが、こういった事情を知ればそのように言い切ることは、到底できることではない。

金粉任さん一家は強制的に日本に居住していたのではないが、日本を去って故郷に戻る選択をした。しかし、その後しばらくして、帰国船の「浮島丸」事故に似たうわさ話が広まる。

「下関を出航した帰国船が途中で爆破され、多数の同胞が死んだ」

このような話が一度や二度でなかったというので、一家はしばらく日本に残ることにしたのである。金粉任さんのご両親は、多くの在日同胞同様に、盛岡市内で古物商を営んだ。くず鉄なども扱うスクラップ業である。

やがて1950年6月25日。もうすぐ解放から5年を迎えようとした日、新しい時代を迎える期待に満ちていた同胞たちの思いとは関係なく、祖国は分断され、徐々に対立を深めていった南北間での痛恨の武力闘争が勃発する。

米軍を後方支援する日本は軍需工場と化し、軍事ブームが巻き起こり、株価は150倍まで上昇した。金属類は値上がりし、銅などは取り合いになるほどの高値で売買され、スクラップ業者はどんどん儲けていった。

そんなある日、金粉任さんのご両親は突然、スクラップ業をやめると言い出した。

「どんなに貧しくとも、どんなに山ほどの大金を積まれたとしても、同胞を殺す武器や弾丸、飛行機を作る銅や鉄の売り買いはできなかった」と。

2014年の夏、この話を知った筆者は、なんらかの形で後世に残すべきだと考え、去る2014年12月28日に、著者の金粉任さんに面会した。

本を読んでも理解できないことがあった。解放当時、岩手県には、盛岡でデモ行進ができるほど多くの同胞が居住していた、その理由が明確ではなかった。

インタビューでも、この理由は明確にならなかったので、筆者の場合を例にあげてみた。筆者の実家の親戚たちは、千葉県にある「日本建鐵」という企業の飯場の親方をしていて、そこで生活をしていた。その話をしたところ、おおむね同じようなことだろうということだった。

そして、核心であるご両親の話を聞いてみた。金粉任さんも当時、ご両親と同じ考えを持っていて、お兄さんと二人でご両親にスクラップ業をやめてもらえるように頼んでみるつもりだったという。ご両親が自ら転業するという話を聞きながら、改めてご両親への尊敬の念を深めていったそうである。

日本に残った在日同胞たちの経済基盤は、闇市から始まり、どぶろくなどの酒造など、生き残るための反社会的なものも多かったが、元手が必要ないスクラップ業を営む人もとても多かった。そして、思いがけず日本の戦争特需に乗ってしまったのだ。日々の生活に精一杯であり、他の職につくにはあまりにも不利な同胞たちは、儲けの大きいスクラップ業をやめるという選択肢は、当時では考えも及ばなかったはずである。筆者の実家もそうであった。

しかし、ご両親は迷わずこれを行い、お菓子業に転業して成功した。

朝鮮戦争で大きく儲けた在日同胞たちの多くは、それを元手にパチンコ業界などを発展させ、大きな経済基盤を築いた。

そのお金は尊い犠牲の上にあることを、日本に生きる者は決して忘れてはならない。今日の日本の繁栄は、多くの犠牲の上に立っていることを、私たちは後世に語っていく義務がある。
(文責:李 浩康「Korea Today」






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