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中道・中庸、両是両非の論理が懐かしくなる

이광열 기자 | 기사입력 2015/04/21 [11:28]

陣営間の極端闘士精神に飼い慣らされて中道が非難される社会

中道・中庸、両是両非の論理が懐かしくなる

陣営間の極端闘士精神に飼い慣らされて中道が非難される社会

이광열 기자 | 입력 : 2015/04/21 [11:28]

宗教と歴史の中の中道
 
仏教で極端を離れ一方に偏らない正しい行法を中道という。有や空に偏らない真実の道理、または苦楽の両側を離れた正しい行法を中道といった。これを実践する八正道は公明な道だ。有我・無我、生命の永続・断滅、肉体と心の一体性論議など多様な形而上学的問題に対しても十二縁起による中道思想で克服しようとした。
 
儒教の中庸思想は理解することは難しいが『日常から遠ざかり道義実現を疎かにしたり、日常をあきらめて高遠な真理を追求するのを警戒』するという中道主義を言う言葉であることに違いない。円仏教でも『不偏不倚と過不及がない円満行』を主な教理とするが、円満行がまさに中道だ。すなわち中道は『正しくすること、または、最も妥当な方向を取ること』をいう。
 
朝鮮時代、宣祖(ソンジョ)の時、東人と西人に分けられて事あるごとに争いがおこると、儒学者であり政治家でもある栗谷李珥(ユルゴクイイ:1536~1584)は両是両非の論理を掲げた。両是両非を適用、非生産的論争を控え、共に重大な国事と民生問題に衆知を集めようと頼んだのだ。些細なことに対しいたずらに「正しい」「間違っている」と根ほり葉ほり問い詰めて、肝心な大事を誤るなという意だった。これもまた中道といえる。
 
極端に染められて中道が非難される時代
 
中道・中庸、両是両非の論理が非難される時代だ。これらの用語が責任を回避して顔色をうかがう行為として置き換えられている。すべての宗教が一様に天の意思が世の中でも成されることを願っているのに、ささいな教理問題と排他的態度で論争を行い、ついには宗教が最もダブー視する憎しみと葛藤、争いと紛争、テロや戦争にまで明け暮れている。各宗教の内外で広がっている状況は世の中で志を成し遂げるどころか世の中の心配の種として広がってしまっている。宗教でも中道・中庸、両是両非の論理が消えて自分の陣営の論理だけを主張するためだろう。
 
宗教のそういう姿が私たちの政治・社会でも極端にあらわれている。『不正を見ても行動しなければ』正義ではないという考えに武装された。あたかも自分の宗派の教理でなければ全て異端だと片付けてしまうのと似ている。中道・中庸、両是両非の論理を取ることに「灰色分子」だとして非難する。自分側の論理が客観・常識的であり唯一の定義という信念に充ちている。両是両非論、中立的な姿勢は卑怯で社会発展に全く助けにならないと批判する。相手陣営の声に耳を塞ぐだけでなく中道、中立に批判を加えているのだ。
 
一例としてどちらか一方に傾いている人々は、セウォル号遺族に対する見解ではっきりと表れる。『正義具現司祭団』のような進歩的闘士、『日刊ベスト』のような保守的闘士の行動と論理に傾倒する。子供が死んでいく状況を生中継で見守った遺族の痛みに共感するものの「自ら悲しみを昇華させて群衆心理と扇動に巻きこまれるな」という宗教的忠告をしようとすれば非情な人になる。『遺族と市民社会の怪談と無理強い』という極端主張を提起する者は不道徳、非倫理、破廉恥、非常識の表象になってしまう。これに対抗して集団的な怒りとして激烈な闘士にならなければ私たちの社会の根本的な改造・改革は成し遂げることができないという確信にみちている。その反対陣営も同じ信念だ。セウォル号惨事を見る視点だけではない。是非判断の素地がある全ての事件において、みんな陣営に分かれてそのような極端闘士の姿が見られる。
 
▲ 言論も保守・革新陣営に分かれて自分の陣営の読者を形成し、他陣営の論調にはむやみに非難する極端風土が染み付いている。中道も第3の陣営、『灰色分子』として批判を受ける。     ©毎日宗教新聞

 
陣営間の闘士的争い―両是両非の陣営論理の外で解決法を模索しなければ
 
中道正論紙を標ぼうしたある新聞が意欲的に読者権益委員会を新設して会議を開いた。この新聞は総じて批判することは強く批判する一方、中道・中立的な姿勢を取ろうと努力した。ところがその中道批判的指向の紙面に対して『不便な新聞』、『若い層に疎外された新聞』、『新しさがない』、『読者の共感を得られない』、『薄い』等の委員たちの評価が主流をなした。どちらか一方の陣営の極端主義的な論調でなければ満足できないように飼い慣らされたのだ。この日の会議である教授は「中道という新聞の方向は良い。しかし二分化された世論構図の中で中道の道は険しい」と発言したが、極端主義陣営に分かれる韓国社会の姿をそのまま語っているようだ。言論も保守・リベラル陣営に分かれて自分の陣営の読者を形成し、他陣営の論調にはむやみに非難する極端風土に染まってしまったためだ。
 
極端主義両陣営で中道姿勢を取って両是両非の論理を展開するならば、両陣営から煮えきらず曖昧だという批判と排斥を受けるだろう。あるいはこのような中道の正道が正しいという強い信念を持つまた他の第3の陣営になり得るだろう。しかし長期的に見る時、栗谷(ユルゴク)の言葉通り『重大な国事と民生問題に衆知を集めること』のためには両是両非、中道の論理が切実に要求される。
 
中道を掲げた新聞の外部コラムの内容にこのような一節がある。「政治・社会が陣営論理に閉じ込められていて国民の考えを二つに分ける時、この陣営論理の外で両是両非の解決法を模索しなければならないのが報道機関と知識社会に付与された課題」という言葉だ。二つとも正しい、あるいは二つとも正しくないこともあるという考えを共有するならば極端主義、排他主義に偏って憎しみと葛藤、争いと紛争を行っている私たちの社会は互いに譲歩して理解できる共同線を見出すことができるだろう。同じように極端主義、排他主義に包まれてテロと戦争まで辞さない宗教社会も、天の旨がこの地に成されるようにする本来の宗教心を回復することができるはずだ。(発行人)
                        (翻訳:Naoko記者)
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