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韓民族の親戚、日本皇室②

이광열 기자 | 기사입력 2015/05/18 [14:08]

光復70周年、韓・日修交50周年記念企画シリーズ

韓民族の親戚、日本皇室②

光復70周年、韓・日修交50周年記念企画シリーズ

이광열 기자 | 입력 : 2015/05/18 [14:08]

日本の古代史司書は『古事記』( 西暦712年)と『日本書紀』(西暦720年)だ。『古事記』は史話中心で『日本書紀』は編年体正史で、二つとも百済貴族であり史家である安萬侶(アン・マンリョ)が編纂したものだ。この時まで日本〔倭〕の内には歴史の本一つ書く人がいないほどであった。そして西暦815年萬多親王が編纂した『姓氏録』などが上げられる。

 
日本史家たち(特に辻善之助)が安萬侶を‘太安萬侶’といった。そのように呼んだのは彼の官名が‘太朝臣’であったため‘太’の字を付けたのだ。これは漢の国の史家、司馬遷を太史公と高めたことに由来したと見られる。その太朝臣、安萬侶を明治年代の日本学者は‘オホノヤスマロ’と呼んだし、それ以来百済史が安萬侶は日本人‘オホノヤスマロ’として取り扱っているのだ。
 
以上の記紀は天皇族を単一王統に作り上げて美化させた。すなわち、日本は初めから天皇族が王として君臨したということだ。その初めての王が神武王で、それから33代目が『古事記』の下限線である推古天皇(628年まで)であり、41代目が日本書紀の下限線である持統天皇(696年まで)とした。
 
したがってこの文を通じて彼らの国祖神説話をはじめ、神武天皇から持統天皇に達するまでの皇室系統を明らかにしてみようと思う。それは今でも日本皇室には韓民族の血が流れているという事実を明らかにして、これを確かに知ろうということだ。
 
日本人たちが金科玉条としている『古事記』『日本書紀』そして『姓氏録』などは著述当時からも架空的に作り上げた点が多いが、特に『日本書紀』は1468年の応仁大乱で燃えて、その後雲蝶という僧侶が農家で得たものは16冊が欠如していて、個人が所有しているものを合本して現在30冊が伝えられている。しかし『日本書紀』を再び作った時の原著者である安萬侶の原本とは違って加筆、潤色、歪曲、誇張された部分が多いことは日本史家も公認する事実だ。故にある日本史家は神武天皇も最初から神話に回してしまうことさえしているのだ。
 
明らかなのは『古事記』(712年) 3巻の編纂が第43代元明王天皇の時で『日本書紀』30巻が編纂された時期が神武天皇の時ではなく養老4年(720年)で8世紀始めという事実だ。したがって永い歳月が流れて書かれた日本古代史は多くの部分が加工と操作・歪曲で一貫していることを先に知っておく必要がある。特に明治維新以後、以上の司書などでいわゆる皇国史観に立脚、ねつ造された日本史を作ったのだ。
 
日本の歴史は推古天皇以後の1300年余りは何ら問題がないが、それ以前(摂政した聖徳太子以前)1260年間は年代と人物などに虚構と操作が数多くある。これは推古天皇の時摂政だった韓民族系の聖徳太子が政治改革を行った西暦600年を‘日本紀元1260年’に合わせるために無理な偽りを作り出したと見る。
 
自らの歴史の装具性を操作するためにとんでもない名前、系譜、年代を無理やり合わせておいたがその実例を挙げれば次のとおりだ。
 
すなわち、『日本書紀』初期には101年(第6代:孝安天皇)または、99年(第11代:垂仁天皇)間も在位した人物がいるかと思えば寿命が143才から107才までの人物を作り出している。 景行天皇(第12代)と仁徳天皇(第16代)が143才で垂仁天皇(第11代)が139才、孝安天皇(第6代) 137才、孝霊天皇(第7代) 128才、神武天皇(第1代) 127才、崇神天皇(第10代) 119才、孝元天皇(第8代) 116才、孝昭天皇(第5代) 114才、開化天皇(第9代)と応神天皇(第15代) 111才そして成務天皇(第13代) 107才などだ。
 
しかし日本の歴代天皇と日本歴史上の著名な人物大部分が高句麗や百済でなければ新羅から渡っていった韓民族であったのは常識に属する事実だ。
 
本来日本列島には‘アイヌ’族と南方系島嶼原始族(『魏書』‘東夷伝’等でいう)の‘蜘蛛族’(または、熊襲族)が住んでいただけでそれ以外は全て海外から渡来した外来族によって歴史と文化が創造されたという事実は誰も否定できない。その到来外族は歴史的・地理的背景から見て南方島嶼からというより大陸方面、特に韓国の地の韓民族が渡って来たことは一般的通説だ。
 
それでは、韓民族が日本の地に初めて足を踏み入れたのはいつからか。紀元前280年頃、古朝鮮の一つである番朝鮮が燕に滅ぼされその一部が日本列島に渡っていったであろうし、その後「濊貊朝鮮」、「衛満朝鮮」の崩壊で日本列島に渡っていった色々な系統の朝鮮人が神代7世~神武年代を形成しただろうと見る。
 
これは日本の西暦250年頃から始まった九州地方の櫛目文弥生式土器、支石墓、甕棺墓と5世紀中葉に北九州の一部から6世紀以後全国的に普及した横穴式石室とその副葬品など文化遺跡が証明している。(ムン・ジョンチャン『日本古代史』664ページ)
 
▲ 「昔、九州と対馬は本来倭人の居住地ではなく三韓の奔馳地域」という記録が三韓秘記などに出ている。    ©



ここで安萬侶は、初めて日本列島に渡っていって国家を建設する過程の先祖をまだ王ということができなくて、ただし「聖は十分に知らないからこれを広げる者を神だと称する(聖而不可知伸者謂之神。〈康煕字典〉参照)」という意味から神を敬って、そしてその国家がまだ成立されなかった年代を神代と名付けたのだ。
 
当時九州と対馬一帯は古朝鮮の分治地域だった。『三韓秘記』には「昔九州と対馬は三韓の奔馳地域だ。本来倭人の居住地ではない(自古九州対島乃三韓分治之也本非倭人世居地)」と記録されている。また三韓の中で馬韓朝鮮の疆域が韓半島南部と対馬、九州にまで渡っていたことを物語っている。
 
したがって一部の日本史学界の主張である「古代日本が三韓三国を支配した」という説とは反対に「7世紀末までの日本列島は朝鮮族の移住地としてその国家成長が三国(高句麗、百済、新羅)政治情勢の影響下にあった」ということができる。
                       (翻訳:Naoko記者)
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