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人間存在の根本に対する問い「自分はだれか?」

SAORI記者 | 기사입력 2020/11/13 [09:43]
宗教・哲学的な命題として生きながら絶えることのない問いかけ

人間存在の根本に対する問い「自分はだれか?」

宗教・哲学的な命題として生きながら絶えることのない問いかけ

SAORI記者 | 입력 : 2020/11/13 [09:43]

宗教・哲学的な命題として生きながら絶えることのない問いかけ

 

「自分はだれか?」、「自分はどうのように生きるか?」、「自分はどうように死ぬか?」は、現代人は簡単に忘れているが、人生において最も重要な問いかけであろう。また、これらの問いは宗教・哲学的な命題でもある。「テス兄」(韓国の男性歌手 ナ・フナ氏がソクラテスを慕った歌)として広く知られるソクラテスもかつて「汝自身を知れ」としたではないか。

 

個人の人生が次第に荒廃し、社会的価値が薄くなって混沌とした状態に生きている今日この頃、このような根本的な問いは私たちの人生においてさらに重要になった。「人間」を探求して「人生」を勉強する学問である人文学ブームが高まったのもこうした理由からだろう。その中の「自分はだれか」についての問いは、人間存在の根本に関する問いであり、絶えず問うべきであろう。

 

現在の生活が憂鬱で満ち足りないものであれば、それは自分自身をよく知らないからだ。20年以上にわたり人間の動機を研究してきた心理学者エドワード・トリー・ヒギンズ(Edward Tory Higgins, 1946~)アメリカ コロンビア大学教授は「当為的な自我」と「現実の自我」が衝突した時、人々は憂鬱と不安を感じると明らかにした。当為的自我は「何をすべき」という条件をつけている。「家を買うにはお金を稼がなければならない」、「昇進には完璧に働かなければならない」、「無視されないためには出世しなければならない」…ところがその条件は自分が作ったものではなく他人が作り出したものだ。一生懸命に生きる人々ほど、社会が作ってくれた信念に合わせて生きているようだ。本当に自分が何を欲しているのか分からないまま、年を取っていく。真の自分と社会的役割を混同すればするほど、人生は不満でいっぱいになる。

 

一度きりの人生…不幸を超えた真の自我探し

 

「人生はむちゃくちゃな馬みたいなものだ、あの馬が君を落とすなら、黙ってまた素早く乗らなくちゃ」

 

フランス作家のジャンポール・デュボワ(Jean-Paul Dubois1950~)の『誰もが同じ世の中を生きるわけではない』の主人公ポール・ハンセンはこんな忠告の意味をよく知っている。たいしたことではなかったが、善良で誠実で、自らは満足できる人生だったが、墜落は一瞬だった。それはあっという間に荒れ狂ってポールをたたきつけた。

 

「どうやって生きるのか?」

 

ジャンポール・デュボワ作品に目立つ主題だ。彼の描く人生は決して美しいものではない。家族間の葛藤、身近な人の死、喪失、失敗者という烙印を押された人生が繰り広げられる。だからといって、放り出されたままでいられないのが、一度きりの人生ではなかったか。作家は不幸を超えて、どうやって自分自身になるかを問う。フランス最高権威のコンクール賞2019年の受賞作『すべの人が同じやり方でこの世を渡っているわけではない』がそうだ。

 

ポールは苦労の多い労働を黙々とやりこなすだけでなく、そこでやりがいと喜びを感じ、「大したことのない人生だったが私には十分だった」と自負する人だ。しかし生の予測不可能による没落は一瞬だった。「不滅の風景に安らかに蓄積された美しさから活力を得る」妻ウィノナが不意の事故でこの世を去り、20年以上働いてきた集合住宅では奴隷のような扱いを受けることになる。人生が逆転した日、彼は刑務所に閉じ込められる。

 

没落した主人公を前に出し作家が提示する省察は、人生それぞれの固有さだ。固有のにおいがあり、「風の習慣があり、見えない水流の血管がある湖」のようにだ。また、牧師であるポールの父ヨハネスが『人の過ちを大きく見るな』という神の言葉を借りて説教したようにみんなが世の中を同じようには生きない。そして重要なことは、それぞれの人生には、どんな手を使ってでも、そこがどこでも、果てまで辿り着きたいという意欲を強く吹き入れる原初的な幸福感、その独特な生命力があるという事実だ。

 

人間は人生の意味を求める精神的・霊的な存在

 

聖書によると神の形象どおりに著された人間は人生の意味を捜し求める精神的・霊的な存在だ。瞬間瞬間、自分の内面と人生について真実の質問を投げかけなければ、他の人たちが投げかけた質問だけを眺めて終わりを告げる。したがって、我々が生きていく中で止めてはならない質問があるとすれば、それは「自分はだれか?」である。この問いかけは、眠っている私たちの内面を呼び覚ます。この問いに対する答えは「自分はどうやって生きるべきか」という答えとほぼ同じだ。

 

そうするためには、まず人生に対する深い省察が必要だ。人生の中で最も重要な部分かも知れない自分の人生に対する真摯な省察をしたことがどれくらいあるか。そして、自分が人生を真に価値あるように生きているのかについて悩むようになる。

 

私たちの人生も決して平坦ではない。もしかすると人生はジェットコースターのようなものだ。上り坂があれば下り坂がある。そうした過程と経験から得られるものは、結局すべての問題の根源は「自分にある」という事実だ。省察を通して自分の中にある問題をじっくり見ることで、解決策も見出すことができる。そのように新しく生まれ変わりながら人生の態度も変わるようになる。

 

アメリカの思想家兼文学者ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau18171862)は「あなたが自分についてどう思うかがあなたの運命を決める」と話した。肯定的な考えは連鎖反応を起こし、肯定的な結果を生み、否定的な考えもやはり否定的な結果を生む。

 

『映画がもっと好きだ/猫がもっと好きだ/バルタ川沿いの柏の木がもっと好きだ/ドストエフスキーよりディケンズがもっと好きだ…/明確でない記念日に執着するより/一日一日を記念日のように大切にすることがもっと好きだ/長い星の時間より/かげろうの時間がもっと好きだ

 

1996年にノーベル文学賞を受賞したポーランドの詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカ(Wislawa Szymborska19232012)の『選択の可能性』という詩の一部である。美しい文体で思索的な作品を主に書いたシンボルスカは、自分がどんな人物かよく知っていたようだ。

 

今感じる不安感を「本当の君になれ」という内面の信号として感知しなければならないだろう。「今まで受け持ってきた役割を除けば、自分はだれか?」という質問と向き合い、今までの「偽りの自我」を悟る瞬間、自分の本当の存在に出会う人生の峠を越えることができる。現在の自分自身の姿に刻まれている信念と価値観は、未来の自分を作る土台になる。だから絶えず「自分」を見つけようとする努力が必要だ。生き方を「成就志向的」から「関係志向的」に変えなければ、この空間はもっと大きくなり空虚感を感じることになる。そのため、押し流されて生きることなく、本当にやりたいことを探さなければならない理由だ。

 

「お前はどこにいるのか?」という質問は人間実存に対する問い

 

神は、人間に質問を投げかけて、自らその質問に対する答えを見つけるよう誘導する。聖書の中に込められた神の質問は、私たちがどのような人生を送らなければならないのかを問い直す重要なキーワードだ。神が人間に投げかけた最初の問いは「アダム、お前はどこにいるのか」(創3:9)だ。アダムとエバがエデンの園で神の言葉に不従順になった後、怖くて園の木の間に隠れた時に投げかけた質問だ。「お前はどこにいるのか?」という質問は、人間の実存に関する問いだ。人間として当然悟って立っていなければならない場所を意味する。そのような意味で、この問いは「今どこにいるのか?」、「今何を見つめているのか?」と同じだ。(自分が)今どこにあるのかを正しく知って、何を見つめているのかを知ることだ。その場は「コーラム・デオ(Coram Deo)」すなわち神の前に立つことだ。

 

ドイツのディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer19061945)牧師は「私はだれか」という詩で鳥かごに閉じ込められた鳥のように不安で病弱な私、わがままと些細な侮辱にも震える私、良いことを待ち望んでそわそわする私、しおれて別れを準備する私はだれか、という質問にこう答えた。『私がだれなのかあなたはご存じなので私はあなたのものです』 おお、神さま!

守岩 文潤洪〈大記者/コラムニスト〉moon4758@naver.com

(翻訳:SAORI記者)

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