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柔軟な宗教改革と「I love me」

이광열 기자 | 기사입력 2013/10/17 [15:42]

和平書信

柔軟な宗教改革と「I love me」

和平書信

이광열 기자 | 입력 : 2013/10/17 [15:42]
自分自身の物が絶対的な価値であると考えるのであるならば、他の人が思う絶対的な価値が何であるのかも、考えてみる姿勢が改革と革命の始まり
 
私の物だけを守って、これに投入しようと努力する態度は、反目と争いを更に増やすだけである

 
◇最近の改革的なローマ法王の動向を見れば、中世時代のプロテスタント(新教)の宗教改革が連想されます。逆にカトリック(旧教)が、プロテスタント(新教)の腐敗と権威的な姿勢を改革する姿を見せてくれます。歴史の繰り返しを感じます。カトリックの伝統慣例を破壊するフランシスコ法王の発言と、下に向かう姿勢が続きながら、多くの人から賛辞を受けています。彼は、無神論者等にも寛容を施すような発言をしました。「神を信じなくても自身の良心に従えば、神は慈悲を施すであろう」と言ったが、これはカトリックの核心的な価値やプロテスタントの教理をひっくり返す破格的なことです。

「イエスを信じなくても救いを受けられる」という宗教の多元主義な問題によって、「WCC」(世界教会協議会)総会の開催を巡って激しい対立を繰り広げているプロテスタントの立場では、簡単に出来ない発言です。中世時代の改革教会も驚く、改革的な宣言です。

◇法王はこれ以外にもイスラム信者と女性に対して、史上初めての洗足式を挙行したし、カトリックではダブー視された同性愛者、堕胎に対する配慮も見せています。女性司祭の叙品(任命)にも肯定的態度を持っているようです。それでも彼の権威と威厳は消えません。イスラムの王妃に頭を下げて挨拶し、大学生等の一般信者にいきなり「びっくり電話」をするものの、彼の権威と威厳はより一層引き立って見え、謙遜と清廉性を備えた宗教指導者としての尊敬心が生じます。私だけでなく、進取的なプロテスタント聖職者をはじめとする多くの宗教人、そして国民の半分を占める無神論者等の間で作られた評判です。

◇勿論、法王のこのような改革的な動向に対する反発が現れています。「法王がカトリック信者であることは正しいのか?」という話まで登場しました。プロテスタント根本主義者が、宗教多元主義を標榜する進歩的なプロテスタント教界に対する批判と同じです。保守的であるために弱体化して行く、カトリックの勢力を回復するための努力として見る人々もいます。しかし、改革的な「イエズス会」出身の法王の自然な振る舞いと実践として見えます。全ての改革には、常に反発があった歴史の繰り返しを見るようです。

◇宗教が権威と威厳を積み上げながら、その中で安住する姿を古今を通して、多く接しました。宗教だけでなく、世俗社会の生理がそうでした。これを拒否して脱皮するのが改革であり、革命です。既存の伝統的な価値に執着して、他人と他勢力を批判するのに全力を尽くすのは葛藤と紛争を招くだけです。
自分自身の物が絶対的な価値であると考えるのであるならば、他の人が思う絶対的な価値が何であるのかも、考えてみる姿勢が改革と革命の始まりです。それによって、宗教的な表現である「世の中の平和と和合」が遂に形成されます。
 
私の物だけを守って、これに投入しようと努力する態度は、反目と争いを更に増やすだけである。各宗教において神の意志が絶対的であると言いながら、各自が相手を自分の方に抱き込んで抑圧するのが常であるが、結局は破局に向かうようになると見ます。世の中の和合と平和を破局に引っ張って行くのは、どの宗教にあっても真の「創造主、神の意志」ではないでしょう。

◇最近、韓国社会においては宗教人・非宗教人を問わず、カトリックの柔軟な姿に対する評判が良くなっています。信者数が増えているのが、これを反映しています。カトリックの柔軟さには、改革的、寛容的な姿勢が入っていると思います。韓国的な風俗を融和させる祭事儀式(先祖崇拝儀式)等をはじめとして、他宗教に対してさほど排他的でない姿がそれです。このような姿は、先月に死亡した小説家の崔仁浩(チェ・インホ)の人生旅程においても感じられました。彼は1987年、母の死を契機にカトリックに帰依して、「ペテロ」という洗礼名を持ちました。しかし、彼の霊魂は自由で柔軟でした。神様を「飴売り商人」と見なしました。生真面目な信者には不敬の比喩であると言うでしょうが、本当に自然で相応しい表現でした。自身を飴売り商人によって意のままに操られる棒飴として比喩することに、称賛と感嘆が生じました。

彼はまた、「仏教に悟りの道を尋ねて、天主教に頼った」、超宗教的人物として評価されています。彼は、「私の精神の父がカトリックならば、私の霊魂の母は仏教である。
そのような意味において、私は「仏教的カトリック信者」として私自身を呼びたい」と憚り無く話しました。プラシスコ法王が万人の尊敬を受ける宗教指導者であるならば、崔仁浩作家は万人の手本となる信者に間違いありません。

◇今回、宗教指導者との対談として、「慶国寺」(キョングクサ)住職である定山(チョンサン)僧侶に会いました。彼は総務院長選挙で仏教界が落ち着かない時も毅然とした態度で、自身の研究と求道にだけに専念していました。彼は世の中の人々と宗教に、「I love me」を説明しました。運動をすれば健康が付いて来るように、私と自身の宗教を愛すれば他人と他宗教も愛するようになるということです。自分の宗教のために他宗教を蔑視して被害を与えるのは、真の自己愛ではないと言いました。「I love me」と言えば、「I love you」が自然に成されると言いました。ふと、カトリックの金寿煥(キム・スファン)枢機卿の時に展開された、「私のせいです」運動が思い出されました。私の心から改革することによって、世の中と宗教も改革できるという思いもしましました。
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