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『自分と違うから悪いと考えれば、耳が塞がり目が見えなくなる』

이광열 기자 | 기사입력 2014/09/30 [09:19]
ブログで見た宗教の世界

『自分と違うから悪いと考えれば、耳が塞がり目が見えなくなる』

ブログで見た宗教の世界

이광열 기자 | 입력 : 2014/09/30 [09:19]
私が寄付したお金、宗教的な目的に使われることは願わない
何年か前に寄付団体の宗教色に関連した記事を見て、寄付団体に関連する記事を探してみた。おかげで私が寄付団体を通じて数年間続けてきたつながりと後援の相当金額は、私が願わない目的で使われていることを悟った。その後、寄付団体を通じて縁を結んだり後援する時は、自分なりに熟慮して寄付団体を選択している。

私が後援しようと思う目的は、病気でお腹をすかせた人々にご飯を与え、薬を提供することであって、彼らに福音を伝播することではない。非宗教、非政治的立場として、純粋できれいな心の助けであることを望んでいる。ただ助けたい心、手を差しのべて抱きしめてあげたい気持ちで、きれいな水一杯、靴一足を求める彼らに心を尽くしたいだけだ。寄付団体が寄付金を受けて、助けてあげるという名目で宗教的な目的をあらわにするならば、絶対に私のお金を寄付したくない。
Midnight windy_cr7.blog.me〔作成者:Zero〕


先に尊重して認めてこそ尊重されて認められる
私にとって宗教というのは、結局は信仰と連結されます。信仰が外に向かって表現されれば信念と見えるでしょう。週末に病気見舞いに行ったのですが、お見舞いに来ていたほかの方達が、「神のご加護で生き返った」と言い、「感謝しますと祈らなければなければならない」と、「神を信じれば良いことだけおこる」と主張しました。

内心、少し不快でした。「神はそんなに偏狭ではありません。神を信じるから助けて、信じないから捨てるというような神をどうして信じますか。宗教人ならば、再び授かった人生の機会をどのように使うのか神を通じて悩んでみる人であって、感謝だけする人ではない。」と思ったからです。しかし、そのような宗教的な対話をする状況でもなかったし、考えも信仰も違うのに良い対話ができるとも思えず、なにも言いませんでした。

人は誰でも良いこと、正しいことをしたいのだと信じています。ところが状況や信仰が違うため、それぞれ違う方式で表現し、行動するのです。その方達の意図は悪くないのに、悪い視線で見つめた私が足りない人間でした。私の信仰が「より良い」、「正しい」、「理にかなっている」と声を荒げて叫べば無視されます。当然の結果です。私が先に尊重して認めなかったので、相手も私を尊重して認めないのです。『私と違う』という理由で耳が塞がり、目が見えなくなるという多くの経験をしました。
トレーダーblog.chosun.com/blog.log.view.screen?l〔作成者:トレーダー〕


法王「信仰を持たなくても良心を守れば神が慈悲を与える」
「神を信じなくても自身の良心に従えば、神は慈悲を与えるだろう。」フランシスコ法王は、イタリアのある新聞に送られた手紙で、「神様は神を信じない人々を許すのか」という無神論者の質問にこのように答えた。
法王は「真心と悔いる心を備えれば、神の慈悲は限界がない」として「信仰がなくても良心に従えば良い。」と明らかにした。続けて法王は「無神論者は良心に外れる行動をする時、罪を犯すことになる。」として「良心に耳を傾けて、これに従うのは善と悪を区分して判断するという意味」と話した。
★心で生きる道... blog.naver.com/solongo〔作成:光る露〕


知恵の宗教
信仰の宗教とは違った宗教が『知恵の宗教』だ。自然現象にはしかるべき原理があるということ、その原理を正しく理解すれば、その恐れから抜け出すことができるということだ。恐れは無知から起こるので、無知から抜け出せば恐れは消える。

知恵の宗教は儒教(倫理的)、道教(自然的)、仏教(心的)だ。私はこの中でも仏教に対する関心が強いほうだ。仏教は科学と似た側面を持っている。科学が主に自然現象、物質世界に対する研究ならば、仏教は人間の精神現象、心作用を研究対象としている。怒っている私を発見し、犯した罪を記憶できないから現在の果報を悔しがる私を発見する、など。
競売の神・ベスト… blog.naver.com/arsgogo〔作成者:私たちのオークション代表〕


宗教の根源は愛と赦し
宗教で魂の安息を得ることができ、自身(の荷)を下ろすことによって自分を見つけ、ひいては相手のためになる法を学ぶことができる。神はそのような良い御言葉をくださる指導者であり、人々を一所に集める媒介体だ。教理を見れば人と人との関係をもっと重視するだろうが、神の神気に注目して崇拝しろということではない。

宗教を信じるあなたはどれくらい隣人のことを考え、大切にして生きているのか。両手を合わせ、ひざまずいて切実に祈るその心は皆一つなら、愛と平和を毎日繰り返し学ぶ人々が他の人を、他の宗教を排斥して逼迫することを恥じなさい。

神の行跡と能力、本の内容と語句にだけ執着してしがみつくなら、あなたの宗教はすでに地獄の境界を越えたも同然だ。宗教の根源は愛と赦し、そして忍耐だ。
こじれたダークナイトblog.naver.com/garanada〔作成者:母さん私昇進した〕


「正直」と「倫理」が人生の不安を払ってくれる
最近になって宗教を持ってみようかとたびたび思う。考えだけで実際持つようになる確率は高くない。色々な個人的理由で宗教を持つようになるならば多分、キリスト教だろう。しかし私の願いは『イエス=天国・不信=地獄』のスローガンや『神様、私の息子を医大に合格させてください。』というような祈福祈祷(ご利益祈祷)ではない。日常の中でもう少し正直で、もう少し倫理的な人間になることだ。
これは宗教の力がなくても可能なことだろうか。「正直」と「倫理」は、この果てしのない『人生』というトンネルの中に閉じ込められて生きる私たちの不安を減らしてくれる。
世の中の全ての幸福blog.naver.com/ghi340作成者:〔クリング〕


宗教と哲学、瞑想から生じて
世の中の宗教や哲学は瞑想から始まる。瞑想家が残した話からヒントを得て宗教を作ったり、瞑想家が残したアイディアを基に思索して、哲学の色々な観点を形成したりもする。
このように見れば、宗教や哲学は瞑想家が残した話の一種の研究バージョンといえるはずだ。しかもそういう宗教と哲学を人生と組み合わせて、生活哲学や思想とか、実用学問がたくさん生じたともいえるはずだ。
タスカルレの瞑想... blog.naver.com/0503chim作成者:〔タスカルレ〕


宗教と歌
いつも感じることだが民俗院で発行する本は良い本が多い。保存するほどの価値ある本を主に出版する。今回読んだ《宗教と歌》は色々な人が書いた本だが、キリスト教・仏教・天主教をはじめとして昔から伝えられてきた「宗教的な歌」に対する多様な研究書だ。宗教的な分野に関心がある人ならば一度見た方が良さそうだ。
太紫院... jps4626.blog.me〔作成者:コンサ〕


無神論者ホーキンスの死
神様が存在しないという主張が持った興味深い特徴は、その論理的結論が自己矛盾的という点だ。神様が存在するという主張はすなわち、神様も存在するものの中に含まれるという主張だ。しかし神様が存在しないという主張は存在する全てのもののうちに神様は含まれないという主張だ。

だが、誰があえてそのような主張を断定的にできようか。彼らはどのように神様が存在しないという事実を知ったのだろうか。そのような主張をするには存在する全てのものに対し、一つも漏れなく完璧に知っていなければならない。しかし人間は存在する地球の生命体の起源や宇宙に対して正しく知らない。ある面、それらが神の存在とも繋がってくる。

したがって、人間として『神は存在しない』という主張は自身の限界を表わすことに過ぎない。彼ら中には知識人だとされる有名人が含まれている。だが、無神論者にも死は訪れる。無神論者のクリストファー・ヒーチンスは末期食道癌診断を受けた後、約1年間死に対して思索し、「神なしでどのように死ぬだろうか」という本を著述して2011年亡くなった。神を否定して無神論者として生きてきた彼は、死を目の前にして肉体の苦痛に抵抗しながらも最後まで「神にバッティングしない」という姿勢を貫いた。
カイロスblog.naver.com/acoloje〔作成者:ars〕


宗教人の皆さん、互いに愛してください!
宗教は人の考えと生活に大きな影響を及ぼすようです。宗教に命をかける人もいて宗教による戦争も起きます。宗教人が自分の宗教を理解するように他の宗教を理解するならば、他の宗教を尊重する心を持つことができるでしょう。愛と寛容、そして慈悲の精神だからです。互いに愛してください。きっとですよ。
UC the STAR ucthestar.com作成者:〔工事中の天文愛好者〕


物質・快楽の空しさ教える「般若心経」と「尊主聖範(キリストに倣いて)」
動画の木魚をたたく腕前はすごい。鳥肌が立つほどだ。ほ~! このくらい木魚を打ちながら般若心経を水が流れるように詠じようとするなら、内徳をおよそ50年は積まなければならない。仏教徒でなくても鑑賞する価値がある。こういうものを音楽的観点で鑑賞できなければ腐った耳だ! 般若心経は韓・中・日三ヶ国が世界で最も多く詠じているが、いつも単調なトーンだ。他のトーンの読誦も試みてみる価値があると思うが…。

般若心経をよく読んでみれば、カトリックの尊主聖範(キリストに倣いて/De Imitatione Christi)を連想させる。最近の韓国カトリック信者は尊主聖範を全く読まない。読まないくせに大きな口をたたいている。尊主聖範は過去には聖書の次にたくさん読まれた本だ。50ヶ国語以上に翻訳された本だ。尊主聖範は物質と快楽の空しさを般若心経とは違う角度から教えている。
-ある老人- blog.naver.com/johnleedr〔作成者:drdrdr〕


公正な仏教、残忍な仏教、慈悲の仏教
仏教は慈悲の宗教だ。だが、その裏側を見れば残忍な程恐ろしい点がある。自業自得の『業思想』がまさにそれだ。牛を水辺まで引っ張って来ることはできても、無理に飲ませることはできないという仏経の言葉は、「釈迦はただ正しい道を教えるだけで、その道を行く行かないは各自にかかっている」という意味だ。

釈迦おじいさんであっても誰かに代わって悟ることも、善を行うことも、死を代身することもできず、したがって悟りの歓喜も、善行の恩返しも、死の結果も代わりに受けることができないという思想、すなわち、行った者が行った通り受けるということがすなわち、自業自得の『業思想』だ。とても公正だ。天には私情がないという言葉と完全に一致する。

今回の人生では悪行をしたにもかかわらず羽振りが良い生活を送るのかも知れないが、いつかは結局自分の身と心で返さなければならない。これを知らなくて悪を行う人々に慈悲心を持つほかはない宗教が仏教ではないかという気がする。
私を愛するblog.naver.com/mukjagan〔作成者:mukjgan〕
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