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イム・ジョンデ、コラム●仏像を焼くお坊さん

이광열 기자 | 기사입력 2014/10/14 [15:12]
融合の時代を越えて、統摂の時代の覚醒

イム・ジョンデ、コラム●仏像を焼くお坊さん

融合の時代を越えて、統摂の時代の覚醒

이광열 기자 | 입력 : 2014/10/14 [15:12]
▲ イム・ジョンデ 未来文化社・会長     ©毎日宗教新聞

「官職の科挙(登用試験)のどこが仏の科挙と比較できますか?」
この一言が、儒生である丹霞(丹霞天然禅師:739~824)の耳に突き刺さり、20日あまり歩いて江西の馬祖道一(709~788)僧侶を訪ねて行った。丹霞が開元寺を訪ね、馬大師に教えを請うたところ、「私は能力が足りないから、湖南の石頭希遷(700~791)和尚を師匠に迎えるようにしなさい。」と言いながら送りかえした。彼は直ちに15日あまり歩いて、石頭希遷を訪ねて行ったが、最初の言葉が想像外であった。
 
「精米所に行って仕事でもしろ。」
3年余り台所仕事を手伝ったある日、石頭和尚が大衆に寺の庭の草むしりを命じた。この時丹霞は、洗面器に水を汲んできて、石頭僧侶の前にひざまずいた。石頭が笑って丹霞の髪を剃ってくれた。そして石頭僧侶が話をしようとすると、彼は耳をふさいで飛び出してしまった。
 
その足で江西の馬祖を訪ねた丹霞が、文殊殿に入って行き、法堂の床の中央に祭ってある文殊菩薩像の首にまたがり、ぎゃあぎゃあ大声を出した。大衆が仰天して、馬祖僧侶に走って行って知らせた。馬祖が丹霞のそのような姿を見て静かに言った。
 
「このような奴を見たことがあるか、まさに『天然』じゃ!」
丹霞が文殊菩薩の首からすばやく降りてきて、馬祖僧侶にお辞儀をした。
「私に法名を下さりありがとうございます。」
「法名だと!なに。」
「私に『天然』という法名を下さったのではないですか?」
 
以後、丹霞は天然という法名を使い始め、舟遊天下しながら教化の道を歩んだ。教化をする間、仏を偶像化するかと思えば、形式に縛られる傾向を目にするとすぐに警戒し始めた。また当時、社会的には唐の玄宗が35才も年下である「楊貴妃」にうつつを抜かし、政治は腐敗の一路をたどっていた時であった。
 
その頃、丹霞が洛陽の慧林寺を訪ねて雨雪に打たれながら入っていった。みすぼらしい服にぐっしょり濡れた姿で院主と向き合った。寺のご飯で飢えた腹を満たして客舎に入った。冷たい風が山寺を包んだが、部屋の床はより一層冷たかった。震えるからだをどうすることもできなかった丹霞は「人をもてなす方法も知らずに、仏にだけ仕えれば何の意味があろうか?」という考えが頭をかすめ、法堂に安置された木仏が目に映った。丹霞は木仏を引っ張ってきて、台所に行き、斧で細かく割ってかまどに火をつけた。火がごうごう燃え上がると、濡れた服を乾かすついでにかまどにぴたっと寄り添った。全身に暖かさが広がってきて、縮こまっていた肩を開いたその時、院主が現れた。かまどで燃え盛る火を見て、法堂に木仏がなくなったのを知り、肝をつぶして驚いた。院主が丹霞を大声で叱った。
 
「あなたも僧侶ではないですか。なのにどうして仕えるべき木仏を焼くのですか。」
院主は目を吊り上げて丹霞に、数百生を洗っても洗い流すことができない大罪を犯し、地獄に行っても一番苦しい地獄に行ってあたりまえだと糾弾しまくった。それでも丹霞は、火かき棒で木片を押込んで炭火をいじりながら言った。
「どうして舎利(釈迦の遺骨)が見えないんだろう?」
この言葉に院主があきれるように言った。
「なに、木仏からどのようにして舎利が出てくるというのですか?」
丹霞は院主の言葉が終わるやいなや反論した。
「舎利が出てこないからにはただの木片であって、何が仏だというのですか。残りの仏像も焼いてしまおうか。」
 
この言葉に院主は息がつまるくらい驚いて、丹霞を穴があくように眺めるだけだった。丹霞は、象徴はあくまでも象徴であって、それ以上にのめり込むものは禅僧の道ではないと大衆に諭しているのだ。よくあることだが、教団が発展すれば儀式と手続きが複雑になって、定例化されて形式が少しずつ塗り重ねられて本来の道から外れることになる。
 
丹霞は、悟りを求める人々が、その時代の状況と妥協して格式が固まって行くのを見て、正道の道に導く行動をしたのだ。丹霞のこのような行動を、丹霞焼仏というのだが、これは歴史的な事件として私たちに大きな教訓を与えてくれる。
 
趙州(778~897)僧侶の三転語も、正しい信仰の態度が何であるかを直視させる警戒の言葉だ。「金仏は溶鉱炉を渡ることができず、土仏は水路を渡ることができず、木仏は火を渡ることができない。」これは金仏が溶鉱炉を渡れば溶けてしまい、土仏が水路を渡れば溶けてしまい、木仏が火を渡れば燃えてしまうためだ。したがって丹霞が木仏を焼いてしまったことは、真の悟りを外に求めずに内部の心に求め、盗賊を矢で捉えるように公正な目で悟りを開けという言葉だ。菩提の根は心の深いところに内在していて、(熱に)溶けてしまったり、(水に)溶けてしまったり、燃えてしまわず大事に保管されているためだ。なので自分の中にある宝石より価値のあるものを、自身の探求を通じて模索しろという警告の木魚であり、深い自己省察を言っているのだ。
 
今日、私たちの社会を眺める時、過去のどの時代でも経験することが出来なかった融合の時代を越えて、統摂の時代を迎えることになった。今や新しい局面転換で、丹霞焼仏のような創造的覚醒が要求される時なので提言してみた

                           翻訳:Naoko記者
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