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人生は霊的自我完成のために与えられた

이광열 기자 | 기사입력 2014/10/21 [17:19]
聖書難題研究

人生は霊的自我完成のために与えられた

聖書難題研究

이광열 기자 | 입력 : 2014/10/21 [17:19]

肉身を持った人間は、生のエネルギーがゼロになれば晩秋に落葉が落ちるように死を迎える。自然の摂理とは、誰であろうとも拒絶することはできず、人間の力で変えることはできない不可抗力的なものである。自然の一部である人間は、自然に順応して生きることが幸福の道であるということを否定できない。ところが、苦痛に耐えられない人々は自ら命を絶ち、悪人は他人の生命を奪う。これは人間の人生に与えられた責務を知らないことからもたらされた悲劇だ。自然の摂理には逆理的なものが一つもない。生命の始まりが人間の意志と無関係なことならば、その生命の終わりである死もまた、人間が関与する部分ではないのだ。神様の形相と聖霊で創造された生命を絶つという行為は、神様の形相と聖霊を破壊する罪悪であり、自身の存在目的を無にする行為だ。

人間は霊的に死んだ
 
インターネットには『死んだ後はどうなるのか』という問いが多い。ある人が「死後を征服した。これを公開すれば巨大な嵐が吹くだろう。」という文を載せたが、これに対して「もし見たのなら、また行って写真を何枚か撮って来てください。」というコメントが付いていた。
 
人々は肉身の死後に対して確信できないので、死を恐れて漠然と死んだ後には生まれ変わる、あるいは全てのことが終わると考える。だが、聖書は人が死ねば肉身は土に戻り、魂は神様に戻って永生すると明確に明かしている。神様は人間を創造する時、肉体の中に不滅の魂が宿るようにした(創世記2:7)ということだ。伝道の書(3:21、12:7)には「だれが知るか、人の子の霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。」という。イエスも十字架に掛けられて魂が肉体と分離する直前、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます。」(ルカによる福音書23:46)という言葉を残した。旧約聖書サムエル記には、死後の世界が存在することを立証する事件がある。ペリシテ人の軍隊を見て恐れたサウルが神様にその対策を尋ねたが、返答を聞くことができなかった。
 
気が焦ったサウルは神様が禁じる神接した女性(巫女)を訪ねて行って、すでに死んだサムエル預言者の霊を呼び出して解決策を尋ねたが、現れたサムエルはサウルを叱責して神様が震怒しておられることを伝えた(サムエル記上28:3-19)。新約聖書には十字架の死を予感したイエスが高い山に登って、遠い昔に死んだモーセとエリヤと共に対話をした(マタイによる福音書17:3)という記録もある。
 
キリスト教では、人間の死は自然なことではなく、罪に対する刑罰(創世記2:17)と見ている。これを反対に解釈すれば、罪を犯さなければ死ぬことがなかったという話になる。死はアダムに対する神様の怒りで、審判(ローマ人への手紙1:32)であり、呪い(ガラテヤ人への手紙3:13)という。神様はアダムに「善悪の実を取って食べればきっと死ぬ。」と死を警告したし、人間の犯罪直後に死が賦課された(創世記2:17)ということだ。罪は死を産んで(ヤコブの手紙1:15)、罪の代価は死亡だ(ローマ人への手紙6:23)等、聖書にはこのような句節が多い。
 
聖書がいう罪による死は霊的な死だ。イエスは父親の葬儀に行くという弟子に「死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。」(ルカによる福音書9:60、マタイによる福音書8:22)と、きっぱりと話した。生きて呼吸している人を死人と規定した。イエスの弟子、使徒ヨハネもイエスのような見解を有していた。ヨハネはサルデス教会の使者に送った手紙で「…わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。」(ヨハネ黙示録3:1)と叱責した。神様がいれた生霊が罪によって死んだことを言っていて、これは即ち人間が神様を失ったことを意味する。アダムとイヴが神様の御言葉だけ聞いて生きていったならば、神様に似た生きた霊[生霊]の人になっただろう。
 
人はみな神に生きる者だからである
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。」(マルコによる福音書12:27)という御言葉は、人間が神様を探す時はじめて生きた人になるということだ。人間の生は死んだ魂を生かすことで、それは即ち神様を探すということを示唆する。
 
 
 
人生は魂を生かす為のもの
 
死は肉体の人生の終わりであると同時に魂の人生の始まりだ。したがって人間は、死を迎える前に肉的有機体の領域で霊的無機体の領域に行く準備をしなくてはならない。植物がいくら勢いよく生い茂っても実を結ぶことができなければ何の意味もないように、人も身体が元気で美しくても魂が善として実らなければ何の意味もない。からっぽの魂がどこへ行くのだろうか。聖書を見てみよう。神様はサムエルにこのようにおっしゃった。「…わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル記上16:7)すなわち、肉体の中の魂が重要だという御言葉だ。イエスは「彼の実を見て彼が分かる」と言い「良い木は良い実を結んで、悪い木は悪い実を結んで、良い実を結ばない木は火の中に投げ込まれる」(マタイによる福音書7:15~20)と警告する。
 
人は死を迎える前に人の実である魂を成熟させなければならないという意味だ。聖書的に見れば、人は死んだ魂を生かすことが人生の目的になる。それなら肉体儀式をみな取り出して、魂をきれいに浄化させなければ人生に意味を付与することはできない。肉気と物気は、霊質から成る魂を混濁させ、暗くさせる不純物だ。世の中に未練を残し、憂い心配して、悪習に溺れて肉的、物的欲望に従い生きることは魂にとって致命的だ。
 
人の心には神様が与えた善の本性の他に、邪鬼の堕落性が入っていて、善良な心もあり悪い心もある。悪い心と良くない心を使わない人が善良な人だ。善良な人は善良な心だけ使って生き、悪い人は悪い心だけ使って暮らす。だから問題を遠いところに探すのではなく、自分の心の中に探さなければならない。どちらの心を使うのかが重要だ。神様が与えた本性である善良な心を使うか、邪鬼が与えた堕落性である悪い心を使うかは自分の心にかかっている。悪い心をたくさん使えば悪い心が主体になるので悪い人になり、善良な心をたくさん使えば善良な心が主人になるので善人になる。自分の心が自分の魂を生かす事もでき、殺すこともできる。自らの善の心を大切に育てなければ魂が生きられない。
 
 
 
神様を畏敬して、人を愛さねば
 
神様から来る善の気運である生気が人の魂を生かす。聖書は善の神様を拒否して、神様なしで生きる人は闇、すなわち死の中にあって(ヨハネの第一の手紙1:5)、愛さない人もまた、死の中に留まっていて(ヨハネの第一の手紙3:14)、憎しみの中には永遠の生命がない(ヨハネの第一の手紙3:15)と定義する。聖書は神様を知らずに、善を行わず、愛さない人は肉身は生きているが魂は死んだ人(ヨハネ黙示録3:1)と見ている。したがって神様を畏敬してその命令を守ることが人の本分であり、善を行って人を愛する人生が魂を生かすことであると提示する。人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。(マルコによる福音書8:35~37)
 
人生の中で外面的、物質的な価値だけを追求すれば空しい生活を送ることになり、内面の自分の霊的自我の成熟に価値を置く人生は永遠の人生になる。聖書は「滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」(マタイによる福音書7:13~14)と言い、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである。」(ルカによる福音書12:15)と教える。ルカによる福音書では、乞食ラザロは天国に行き、金持ちは暗い所で苦痛を受けていると教えている。
 
地獄がどこにあるだろうか? 不安な心、憂い心配する心、人を蔑視・過小評価して妬み・嫉妬する心、もっと多く得ようと、さらに高くなろうと目が見えなくなっている人の心がまぎれもなく地獄だ。このような人の魂は神霊な魂ではなく死んだ魂だ。神様を心中として生きれば心が天国で、魂が活気を得る。まず天国を自分の心に作り上げなければならない。天国は自然に作られ、誰にでも与えられるものではない。
 
自分を正しく見つめよう。私は神様の気持ちで生活しているか、邪鬼の気持ちで生活しているか? 気を引き締めなければならない。自分の心のアンテナが大韓民国放送を受信しているのか、北朝鮮放送を受信しているのか? 心の方向を正さなければならない。
 
『救援』という言葉は『悪人を善良な人に変える』という言葉で、『罪人を罪のない人に変える』という言葉だ。精神と心が変われば救援を受ける。ロシアの大文豪トルストイは、世俗的な人生がみなつまらないということを悟った。彼は50才前後で富と名声を投げ捨てて神様に帰依した。彼はこのような言葉を残した。「物質的で動物的なことだけ追求する人生ほど悪いものはなく、魂を肥らせようとする行為ほど自分自身と他人に有益なことはない。」
 
人生は人間に付与された運命であり、人間はこの権利を行使して自分の魂を生かす責任を果たさなければならない。神様に知性で仕える時、可能になる

                           翻訳:Naoko記者 
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