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現世利益に最高の価値を置く、創始者が存在しない宗教: 道教

운영자 | 기사입력 2013/07/01 [11:03]
チャン・ジョンテ (三国遺事研究院 院長・ソイル大学 民族文化学科 講師)

現世利益に最高の価値を置く、創始者が存在しない宗教: 道教

チャン・ジョンテ (三国遺事研究院 院長・ソイル大学 民族文化学科 講師)

운영자 | 입력 : 2013/07/01 [11:03]
 現世利益に最高の価値を置く、創始者が存在しない宗教: 道教

 
 
チャン・ジョンテ
(三国遺事研究院 院長・ソイル大学 民族文化学科 講師)


 道教は韓国のみならず、東南アジア国家の信仰と生活に深く根を下ろしている。人間存在の根源的な真相を把握し、その教理に従った実践修行を提唱しながら、宗教次元において不動の地位を維持する道教思想の根源と生死観、仏教との関係等を整理してみたい。本稿はチャン・ジョンテ博士がソイル大学・民族文化学科という特殊な学科において、前期の学期に講義した内容を要約整理したものであり、3回にわたって連載する。

道教は中国で発生した宗教である。道教を儒教と共に中国の民族宗教とも言えるが、韓国、日本、香港をはじめとする東南アジア国家(ベトナム、ミャンマー、タイなど)の民族信仰や生活に大きな影響を与えている。彼らの生活や習慣、思想を形成する重要な要素となるためである。道教はすべての時間的な変化と空間的な多様性、そして、成立の歴史的な限定性があるにもかかわらず、人間存在の根源的な真相を、ある意味においては深刻に把握し、組織された教説とそれに伴う実践修行を唱えて信じるようにする、不動の地位を確立した。教祖が存在しないので、ある特定の人物によって創始された宗教と見られないのが道教の特徴である。

 
道教の成立: 古代人類は森羅万象のどこにも精霊があると信じ、この段階をアニミズムと言う。中国の原始信仰もこれに始まり、精霊を鬼神と言い、天神・地祇・人鬼の三種類として考えた。このような考えから、あくまでも現実に終始して人生に全てのものを依託し、現生の幸福に最高の価値を置いて後悔しない中国人は、昔から楽天的な生活をするようになった。
 

道教の構成要素: 巫俗的要素と方士(神仙術)、陰陽五行説、讖緯説、道家などがある。


自己を凝視した宗教的哲学者、荘子(B.C.390年~359年?)


ある人は、他人の問題に主に関心を持って生きる人がいる。主に他人を支配するのに興味を見せる人として、政治家、事業家、軍人である。反面、自らの問題に主に関心を持って生きる人がいる。学者、芸術家等である。孔子は常に社会に関心を持った。彼の人格形成が社会に向かった関心の一手段であるならば、これは老子の道教政治学を意味する。荘子は個人の問題に関心を持った。無為自然を謳っているが、それはやはり個人の幸福のためのものである。徹底した社会的無関心であった。常に永遠と自己を凝視した宗教的哲学者である。
 

荘子の生涯は、老子に比べて相対的に明らかにされている方である。荘子は戦国時代の宋国・蒙県の人で、名前は周である。字は子休、あるいは南華真人である。早くから蒙県の鉄原の地で、地方官吏をしたと伝えられている。妻が存在し、何人かの弟子を率いており、荘子の説く道を聞いた楚国の襄王が、宰相として彼を招聘したが、結局は断られたという記録がある。


 
*荘子: 紀元前390年~359年に出生。300年~270年に死んだと記録は伝えている。学者の間では、おおよそ紀元前369年~286年であると推定されている。この時期は孔子よりも約150年、時代が遅れ、孟子(371~389)とほとんど同じ時期の人として推定される。しかし、孟子の本に荘子に対する言及が無く、やはり荘子の本にも孟子に対する言及が無い。同時代に生きながら、お互いを知ることがなかったのである。梁の恵王や斉の宣王と近い時代に実存した。当時は戦国時代として、政治的にも社会的にも極めて困難で、不安定な時期であった。お互いに和解出来ないが故に孝や愛が説かれ、国が乱れて治まらぬからこそ忠臣が強調される(道徳経18章)。男女間が性的に乱れるので、「男女七歳不同席」(男女は七歳にして席を同じにしないこと)が強調される。忠孝が強調される社会でなければならないという主張である。多くの国家が群雄割拠した時代、戦争と殺戮、権謀術数が渦巻く不安と絶望の時代に生きた。


 
老子の教えを大衆化させる


老子に対する荘子の位置は、あたかも孔子に対する孟子の位置と同じだと言える。孟子が孔子の教訓と教義を大衆化させ、荘子が老子の教えを大衆化させた。彼は宋国の末端官吏であったが、学問と識見が博学で、いつも孔子の儒家を誹謗したという。荘子の「胡蝶の夢」と「鼓盆之嘆」が道教を一言で表現している。
 
 

「胡蝶の夢」の内容は以下の通りである。ある日のこと、荘子は自分が蝶になっている夢を見た。あちらこちらを飛び回っていると、どれくらい気分が良いのか、言葉に表すことが出来なかった。飛んでいて美しい花を見れば下って行って、花の香りを嗅いだり、蜜を吸ったりして、また飛び回った。その時は、自分が荘子であることが分からなかった。自分が夢で蝶になったのか、蝶が夢で荘子になったのか、誰が蝶で、誰が荘子なのか分からなかったという話である。
 

「鼓盆之嘆」内容は以下の通りである。荘子が妻の貞操を試してみようと悪戯をしたのだが、妻が激しい羞恥心を感じて、自殺してしまった。妻がいないので、様にならない。彼は妻が普段、水を汲んでいた水瓶をトントンと叩きながら、「人が生まれて死ぬことは、これもまた大変なことなんだ」と嘆いた。
 

そして荘子は、人の生死に対してある悟りに達しながら、「人間の生活は夢に過ぎず、死とはこの瘤(こぶ)が取れて落ちることだから、すがすがしいものだ」と言った。
ある日、荘子が道を歩いていたら、骸骨を見て楽しんだという。「君は、南に面して座った王よりも楽しそうだ。」荘子は、生死一如の厭世的思想と生死超越思想を持っていた。彼は、「存在と非存在の中間状態で変形が成り立ち、また、そのような変形過程において物理的な力が放出される。その物理的な力がすぐに形体として変形され、その形体は生命として変形されて、その生命は再び死に変形される。これはあたかも春、秋、夏、冬の四季が循環するかのようだ」と見た。


 
一方に偏った偏見を故意に前面に出しながら、実はすべてのことが一つであることを知らない。それを「朝三」という。「朝三」とは何か? 猿回しが猿たちにクヌギの実を分けて与えながら、「朝に三個、夕方に四個だ」としたところ、猿たちが怒った。それで、「それでは朝に四個、夕方に三個だ」と言うと、猿たちは喜んだ。名称(表現)も内容(実質)も変わらないのに、喜びと怒りが発生した(物事の是非にこだわっているためである)。やはり、自然そのままの大きな肯定に体を任せていなければならない。したがって、聖人はこの是非を調和させて、自然の天鈞(万物斉同の道理:万物は全て同じという意味)において休む。これを「両行」(対立した二つが順調に伸びて行く立場)という(荘子、『荘子』 アン・ドンニム訳注、ヒョンアム社、2001年、64頁)
 

 
列子にも出て来る話がある。従来の研究者は同じ数字を「変えたから喜んだ」として猿を嘲笑うが、単なる算数を越えて利子計算が出来る猿である。例を挙げると、学生たちに月給で100万ウォンを与える時に、月初めに10万ウォン、月末に90万ウォンを与えても実際の受領額は同じである。ところが、月の途中で会社はサラ金業者として利潤を得ることもできる。荘子が生きた混乱期であれば、夕方に残りを受け取ることができるという保障は無い。主人よりずる賢い猿である。人間を中心として解釈する不手際を乗り越える必要がある。


 
人は湿気の多い所で寝れば、腰の病気になって半身不随で死ぬが、ドジョウもそうだろうか? 木の上にいれば、人は震えて恐れるが、猿もそうだろうか? この三者の中で誰が正しい住処(すみか)を知っているのか? あるいは、人は牛・豚などの家畜の肉を食べ、トナカイは草を食べ、ムカデは蛇を食べるのが好きで、ふくろうはネズミを食べるのが好きである。この中の誰が正しい(本当の)味を知っていると言えるだろうか? 雌猿は長い手の雄猿をつがいとして考え、トナカイは鹿と交配して、ドジョウは魚と遊ぶ。美人の娘を見たら人は美女だと言うが、魚は彼女を見れば水中深くに隠れ、鳥は彼女を見れば空高く飛び上がり、トナカイは彼女を見れば力の限り逃げる。この四者の中で誰がこの世の正しい(本当の)美しさを知っているだろうか? 私が見るには、(天下の)仁義の発端や是非の道は混乱していて、めまいがする。(ところで)どうして私がその区別が分かろうか?(荘子、『荘子』 アン・ドンニム訳注、ヒョンアム社、2001年、76~77頁)


 
善と悪、美しさと醜さ等、どこを基準とするかによって大きく変わるのである。荘子は人間社会の中で優秀な人々が定めた体系と偏見に、全面挑戦状を叩きつけた偉大な思想家である。






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