「奇跡はない。ただ人々が願っているだけ」
人は自分の力で解決不可能なことが発生すれば、奇跡が起こることを願う。だから藁をもつかもうとする心情で、奇跡を起こすことができると考えられている神や霊の力を借りて問題を解決しようとする。心が柔弱な人が平常心を失えばこのような依存心に捕われることになる。ほとんどがそうだ。人間の生存本能といえる。 1945年、日本の広島に原子爆弾が投下された時、3万5,000人(韓国人)が死に、1.8平方マイルの区域が焦土化した。この地域の「島」という病院の患者と医療スタッフ80人余りも死亡した。ところがこの病院の院長は生き残った。その時彼は他の病院の要請を受けて手術をしに出張に出かけていたためだ。近ごろ我が国慶南(キョンナム)晋州(チンジュ)で撤去作業中に建物が崩壊して作業員が全て死んだ。だが、タバコを吸おうと建物内部の壁側に行った作業員は壁と天井との間に空間ができて生き残った。 こういう現象が奇跡であろうか。違う。怪現象といったほうがよい。人間の幸と不幸は時代と環境、自身の運と能力により左右される。したがって必然が偶然になり得、偶然が必然になり得るということだ。時折、自然現象の中に溶け込んでいる人は自身も知らないうちに流れに乗る。気持ちが良くなくて、感じが良くなくて死地から抜け出したりもする。このような感じは一部の人の身に備わっている予感、あるいはインスピレーションといえる。 奇跡はあるのだろうか。奇跡はない。単に人々が希望するだけだ。奇跡のような現象は人が作る。むしろ自らの運、能力だというほうがしっくりくる。宇宙自然の法則は科学的だ。宗教経典に記録された奇跡のような話や、巫卜が経験したという神秘的な(?)話は非自然的なことで、非科学的なことだ。ファンタジー小説でも見ることができる素材だ。もしそれらが事実ならば、それは霊的な幻想だというだけのことだ。 宗教と巫卜の奇跡自慢は 宗教と巫卜が奇跡を起こして、腕が良いと自慢するのは自分の宗教や占い所、自らの神や霊に依存性を高めるようにするための戦略で、神や霊のメッセンジャーである自分たちに依存して生きろと広告を出すのと変わりない。すなわち、自分たちを敬って迎えて、お金を捧げろという話だ。 宗教経典の中の奇跡や奇事は著者が実感的で、感動を与えるために使ったものなどだ。自然現象と霊的な能力がある人による奇跡と奇事のような現象はあるが、実際の奇跡・奇事はない。もし神や霊が奇跡や奇事を起こすならば、人間は無価値な存在になり、自然の法則が崩れてある特定の宗教の神が脅迫する『世の終わりの日』になる。 神や霊は人間の能力を盗用する。人間は自ら「万物の霊長」という。一部の人には霊的な能力がある。病気を治す能力、透視力、予知力など多様だ。ところで人間はこのような能力を神や霊が与えると思っている。自分に能力があるということを知らない人が多い。 自らの運と努力で生きることが人生の定石だ。自らの能力で成せないことを超越的な力を借りて解決しようとするのはごり押しだ。それどころかさらに大きな副作用を産むだけだ。人間は有限な存在だ。人生史ごとに終わりがある。不可抗力的なことは秋になって落ちる落葉のように自然な現象として受け入れて楽に迎えることが賢明なことではないかと思う。 奇跡と天運の誘惑に負けて、自分を虚空をぐるぐる回る亡霊にすることはやめよう。 (毎日宗教新聞会長) (翻訳:Naoko記者) <저작권자 ⓒ CRS NEWS 무단전재 및 재배포 금지>
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