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『崇拝』を考えてみる

매일종교신문 | 기사입력 2018/09/06 [13:01]
-21世紀科学文明時代に崇拝の真の意味を考え直してみなければ

『崇拝』を考えてみる

-21世紀科学文明時代に崇拝の真の意味を考え直してみなければ

매일종교신문 | 입력 : 2018/09/06 [13:01]




先日集いを通じてある宗教団体を訪問しました。その規模がとてつもなかったです。案内人に付いて回るのも大変でした。ある建物に達して、案内人は私たちに襟を整えろと頼みました。聖殿といっていましたが、門は堅く閉じられていました。「この建物の中に何があるのか」と聞いたところ、「○○神がおられて、特別な行事の時にだけ礼服を着て入って礼拝する」と答えました。


信徒と見えるひとりはその建物の前で頭を90度に下げて全情熱を傾けて何か祈祷を捧げていました。とても敬けんに見えました。私の心には色々な考えが起こりました。果たして神は人間と同じ感性を持った存在であり、人間の願いに応じることができるだろうか。人間の崇拝をどう思っているのか。感性があるならば行き過ぎた崇拝に負担を感じ不便に思いはしないだろうか’と自問自答しました。


英国の哲学者ハーバート・スペンサーは『人間は生きることが怖くて社会を作り、死が怖くて宗教を作った』と言いました。人間は不完全です。だから超自然的な能力を持つと考えられるものを崇拝して自衛して助けを受けようとします。


恐れが崇拝を生む


原始人は理解することができない自然現象を崇拝しました。暴風雨や洪水、地震・火山のような自然力を崇拝しました。岩や山、木・動物たちも崇拝し、空の太陽・月・星を崇拝し、特別な人間を崇拝して宗教的崇拝の対象としました。中国では三国志の英雄を崇拝しています。日本の天皇崇拝もその一例だと言えます。


『ずば抜けた人』になろうとする人は自分を現すのを非常に好みます。崇拝を受けるのが好きです。自分が『崇拝の対象』になることを望みます。特に一部の新興宗教教祖は派手に美しく飾って崇拝を受けています。北朝鮮には金日成(キム・イルソン)-金正日(キム・ジョンイル)の銅像が35千個程もあるといいます。北朝鮮住民たちは義務的に大きな黄金色の銅像の前に花を捧げて頭を下げて崇拝しなければなりません。


近ごろ習近平 中国国家主席の崇拝熱風が吹きましたが逆風をむかえています。習近平の母校である精華大学のある教授は「個人崇拝は知能水準が低いからだ」としながら、「今までの改革と開放の成果を無にするようなこと」と強力に批判しました。習近平肖像画に墨汁を浴びせる事件も起きました。


20161125日に他界したキューバの革命家であり政治家であり、独裁者と称されたフィデル・カストロは息をひきとる前に名言を残しました。「私を崇拝するな。私を記念するどんなものも作るな」49年全権独裁者のイメージとは全く違う遺言です。


教えのとおり実践して自分を知り、自分を真っ直ぐに立てなければ


過去未開文明時代に存在したアニミズムやトーテミズム、シャーマニズムは今日この時代にも残っています。人間の知的水準により崇拝の対象が変わっています。崇拝対象が自然物から人間と神に移動しただけです。


『崇拝』というのは『仰ぎ敬う』という意味です。立派な人を賛えて彼の教えを崇拝するのは悪いことだとはいえないでしょう。しかし教祖を神などの宗教的対象として信仰するよりは教祖の教えのとおり実践して自分を知り、自分を真っ直ぐに立てなければならないのに慣習に縛られて崇拝にだけしがみ付いているならば愚かで情けない人生になってしまうというのです。

「人が万一全ての天下を治めても自らの命を失えば何が有益だというのか。人は何をもって自らの命と換えることができようか」

「宇宙の主管を願う前に自己主管を完成せよ」という教祖の教えに意味があると考えます。


私もひところ八聖蝋燭(八本の燭台の蝋燭)を灯して10年の間祈祷の真心を込めました。断食して徹夜して真心を込めれば神通力も得て、万事通過することができるという慣習を信じたためです。しかし聖人たちのみ言葉と歴史を追跡して勉強してみると、私自身が愚かだったということを悟りました。慣習に溺れて私の水準(知っていること)が正しく全部だと信じて頼りました。愚かで情けなかったのです。


宗教家はもちろん非宗教家も慣習的に難しいことに見舞われれば神を求めて自身の問題が解決すれば「神が助けてくれた」と言って神を賛美します。〈尽人事待天命〉(人事を尽くして天命を待つ)人間ができる事を全てやってみることもせず、生はもちろん死までも神にかかっていると慣習的に考え、慣習にどっぷりと漬かり神にしがみ付き困難を解決し福を受けようと苦心しています。


ソクラテスは「問い質さない人生は生きる価値がない」と言いました。呑虚(タンホ)僧侶は「法堂を百棟建てることより僧侶を勉強させることが重要だ。偉大な人材が多く育ってこそ良い国、良い世の中になる」と言いました。


このところ釈迦の最後の教えをかみしめてみます。「阿難よ、したがってここであなたたちは自らを灯火として[自燈明]、自らを拠り所として[自帰依]留まって、人を拠り所として留まるな。法を灯火として[法燈明]、法を拠り所として[法帰依]留まって、違うものを拠り所として留まるな」



                                                                              (翻訳:Naoko記者)



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